当時十六歳だったわたしは、松山町にある寮から毎日歩いて旭町の鉄工所に通っていた。その日は朝からのひと仕事を終え、午前十時半ごろから休憩になり、友人と二人で涼しい鉄工所の軒下に寝転んでいた。
すると爆音がだんだん近づいてきた。兵隊らが騒ぎだした。岸壁に係留していた船に機銃が据えてあり、「狙え」などと叫んでいた。急いで脱いでいた服を着て鉄工所内に入った。と同時に窓の外が一面にオレンジ色に。すぐ目と耳をふさいで地面に伏せたが、背中に重たいものが落ちてきた。
崩れた天井のがれきの中からはい出してみると、知り合いが道を走っているのが見えた。すぐにそれを追い掛けて走ったが見失ってしまった。周囲の家は次々にガラガラと音をたてて崩れていた。着物がぼろぼろになり、白い目だけを残して体中真っ黒になってさまよう人もいた。背中や顔にガラスが刺さってけがをしていたので、治療所の稲佐小学校に一人で向かった。
治療所は死体や重傷患者でいっぱいだった。傷を治療してもらおうと背中を見せたが、比較的軽傷だったためか何もしてくれなかった。重傷を負い痛みで泣き叫んでいる女性に、医者が「あなたはお産をするときどうするのか」と励ましながら治療していたのを覚えている。
治療所を出てから稲佐山に行った。山は避難してきた人でいっぱいだった。知人の名を呼んで捜す声があちこちでした。夕方になって旭町の鉄工所に戻ると、仲間はわたしが死んだと思っていたらしく、「よかった、よかった」と喜んでくれた。その夜は旭町の防空ごうで過ごした。浦上は一晩中明々と燃えていた。
わたしは佐賀の鹿島の工場から出張で来ていたので、あくる日、防空ごうを出て鹿島に向かった。旭町から歩いて稲佐橋を渡り、浦上の方へ近づくにしたがって路上の死体が増えてきた。たまらず顔を背けると顔を向けた方にまた死体がある、といった具合だった。口を開けた黒焦げの女性の死体は金歯だけが光っていた。服が焼けてしまい、皮のベルトだけが残った男性の死体もあった。浦上川は人や馬の死体でいっぱいだった。
消防の人が酒だるにごはんを入れて持ってきて、汚い手で握ってくれた握り飯がとてもおいしかった。その夜は長与の防空ごうで過ごし、次の日に諌早の病院でけがの手当てをしてもらった後、列車で鹿島まで戻った。
<私の願い>
核兵器や核戦争は絶対に私たちの代で終わらせなければならない。被爆者として、核兵器はこれだけひどいものだということを後世に残していかないといけない。それにはもっと被爆者が声を大きくして訴えていく必要がある。