当時二十歳。和裁学校を出て仕立ての仕事をしていたが、徴用を受け茂里町にあった三菱兵器茂里町工場検査課に入ったばかり。潜水艦魚雷の部品に傷が入ってないか、寸法は違ってないか、女子約二十人で作業。実家の竹の久保町から毎日通勤していた。
あの日は午前中、同大橋工場に同僚と書類を持っていく予定だったが、直前になって作業場に残ることになった。一人出かけた同僚が先方に着いたころ、目の前でパンとはじけるような鋭い光が走った。大型クレーンが倒れるようなものすごい音がして、とっさに物置の陰に転がり込んだ。
気が付くと辺りは異様なほど静かで、焦げたにおいと苦しそうな人の声が聞こえた。倒れてきた大きな鉄骨の下で、守られるように横たわっていた。右腕などにガラスの破片が突き刺さり、やけどを負っていたが、その時は気付かなかった。
外に出ると建物はなく一帯火の海。近くの防空ごうに向かう途中「水をください」とうめき声を上げる人に何人も会った。言葉を失い、かわいそうという感情もなく、ただぼう然と焼けて熱い地面を歩いた。
防空ごうで偶然上司に会い、飛び付いて「よかった。元気でしたか」と涙を流した。乾パンをもらったがのどを通らなかった。付近には何とも言えないにおいが漂い、黒褐色にただれた乳房から幼児に乳をのませる若い母の姿もあった。
飽の浦の造船所で働いていた兄が防空ごうを探し回って迎えに来てくれたが、体がだるくて動けずそのまま二、三日そこで休んだ。だれが死んでだれが生きているのか区別がつかないほど悲惨な状況だった。
数日後、兄嫁と子供三人が大やけどで亡くなったと兄から聞いた。父と母は新興善小学校に設置された救護所で治療を受けていたが、しばらくして両親とも亡くなった。実家も全壊し家族全員が集まることはあの日を境になくなった。
投下された爆弾が原爆だったことも黒い雨が降ったことも終戦さえも、何も知らなかった。頭の中は真っ白で焼け野原の片隅で喜怒哀楽のない日々を送った。
現在の生活が夢のようだ。当時の状況はいまだに厳しい現実。親孝行ができなかったことが本当に悔やまれる。
<私の願い>
核の被害を受けた苦しみは私たちだけでたくさん。世界で核実験が行われたニュースを見るたび不安な気持ちになる。日本だけでなくどこの国にも核が使われない平和な世の中を願っている。