当時十六歳。両親、私、二人の妹、弟の家族六人暮らしだった。私は毎日、浜口町にあった三菱長崎造船所の分工場に通い、学徒報国隊として鉄を削る作業に従事していた。
その日は朝から警戒警報が鳴ったため、自宅に待機。しばらくすると空襲警報に切り替わった。どこからか「ブーン」と飛行機が飛んできたため、慌てて押し入れの中に逃げ込んだ。突然、「ガラガラ」と物が壊れる音がしたため、慌てて外に飛び出すと、平屋の家は半壊状態。辺りは煙が立ち込めていた。
縁側にいた四つ下の妹は半身に大やけど。その下の妹は家の下敷きに。何が起きたのかさっぱり分からない。だれかが「防空ごうに逃げろ」と叫んだため、妹たちを連れ無我夢中で自宅下の防空ごうに入った。母は半壊した自宅の中から布団や衣類を一生懸命取り出し、畑に運んでいた。
火の手が防空ごうの下まで迫ってきたため、みんなで裏山へ向かった。背後に見える長崎の街は一面焼け野原。途中、建物の下敷きになって助けを求める人がいたが、他人を助ける余裕はなかった。
やっとの思いで逃げ込んだ畑には、大やけどを負った人、全身が膨れ上がり出血している人など負傷者がたくさん。目の前の光景が信じられなかった。夕方、三菱長崎造船所に働きに行っていた父が戻ってきた。その日は家族みんなで寄り添い、眠れぬ一夜を明かした。
父は翌日から遺体を焼く作業に従事する一方、大やけどを負った妹を必死で看病した。私は遺体の焼ける臭いが気になり、食べ物すらのどを通らない状態。数日後、父の実家がある八坂町に家族で向かった。
特に大きなけがはなかったが、しばらくすると髪の毛が抜け、体に斑点(はんてん)ができ、歯茎から血が流れ始めた。高熱と下痢も止まらず、一時は死を覚悟したこともあった。何とか生き延びることができたが、今でも疲れやすく、時々目まいに襲われることがある。後遺症だろうか。
<私の願い>
世界中の人々が欲を捨て、感謝の気持ちを持って生きれば、戦争のない平和な日々が訪れるはず。あの日の悲惨な出来事を二度と繰り返してはいけない。