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私の被爆ノート

熱線浴び全身大やけど

1998年10月29日 掲載
清水 昇(68) 爆心地から約1.8キロの幸町路上で被爆 =長崎市辻町=

当時十四歳。春に国民学校を卒業、八千代町の溶接工場で働いていた。社長と二十歳ぐらいの先輩と見習の私、三人だけの小さな工場だった。その日は溶接に使う酸素の補充のため、先輩と二人、空のボンベをリヤカーに積んで稲佐町の業者の所に向かった。

幸町の踏切を渡るとき、浦上駅の方から猛烈な爆音が聞こえ、B29が急上昇するのが見えた。あっ、と思った瞬間、大きなものがショートしたような、いろいろな色の光がぱーっと光って、チカチカと針が何本も刺さるような痛みを全身に感じた。覚えているのはそこまで。

「清水くーん」と呼ばれた気がして目が覚めた。リヤカーは飛ばされ、先輩の姿もない。私はレールの上に積まれたように転がった材木の上に横たわっていた。さっきまであったはずの建物が何もなかった。

熱いな、と思うとシャツの背中が燃えており、慌てて脱いだ。ズボンも半分燃え、履物もなかった。いったん工場に戻り、めちゃくちゃになった建物から荷物を取って、辻町の自宅に戻ろうと夢中で歩き始めた。何が起きたのか、まだ分からなかった。

途中、立ち寄った防空ごうでは、中にいた人がびっくりした顔で私を見ていた。顔にやけどをし、あごの皮がどろどろに溶けていたらしい。その人もひどいやけどをしていた。

銭座町まで来たが、一面火の海で、先には進めそうになかった。立山の方から山を越えて帰ろうと決めた。水を飲もうとした人たちが側溝に頭を突っ込み、折り重なって死んでいた。破裂した水道管の周りに争うように人が集まっていた。

高台にある家の近所まで来ると、大橋の兵器工場が燃えているのが見えた。聖フランシスコ病院からも火が上がった。町内の防空ごうに逃げ込み、置いてあったやかんに口を付けて中の水を残らず飲んだ。

家にいた母は、顔から足の先まで、体の右側に残らずガラスが突き刺さり、腕の骨が見えていた。照明用に、と職場からくすねたカーバイドの火のつけ方を弟と妹に教えたところで、また意識がなくなった。

翌日か二日後か、消防団員たちが戸板に乗せて病院に運んでくれた。周りを見ようとしたが、顔がはれ上がっていて目が開かなかった。「だめかもしれんな」などと話すのが聞こえた。病室は窓ガラスもなく、野ざらし同然。数日後「戦争は負けたげな」とだれかの話す声で終戦を知った。

両足と両腕、背中の半分、そして顔に大やけどを負った。右腕は、半そでのシャツのそで口で線を引いたように、熱線に当たった部分がケロイドになり、傷口には、ウジがわいた。

一緒にリヤカーを引いていた先輩には、あれきり会えなかった。
<私の願い>
二度と起きてはならない惨事と思う。いまだに核兵器の研究や開発に携わる人間がいるのが歯がゆい。一度、同じ苦しみを味わってみろ、と言いたい。戦争は絶対にいけない。

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