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私の被爆ノート

人目気にし心開けず

1998年10月15日 掲載
吉田 勝二(66) 爆心地から850メートル、油木町と大橋町の中間付近の路上で被爆 =長崎市片淵2丁目=

当時十三歳。県立長崎工業学校造船科二年だった。空襲警報が鳴り、私を含めた学生七人は油木町にあった堤に避難。やがて警報が解除され母校に戻る途中、のどが乾き農家の井戸に立ち寄った。落下傘が見えた。「落ちてきよっぞ」。私たち七人は手をかざし空を見た。いきなり右からの衝撃。カタツムリのように丸まり、畑と道路を越え田んぼまで吹き飛んだ。気が付くと私の体は真っ赤に焼けただれ、肉がむき出しになっていた。スルメになって焼かれた気がした。

それほど痛みは感じなかった。他の六人も即死は免れていた。大橋方面に行くと、方々から火の手が上がり、体の前半分が炭化した死体などで路上はあふれていた。飛び出た両方の目玉を顔面にぶら下げた人が、足を無くした人を背負って近づいてきた。だれかが声を掛けると、「あー、やっと人と話ができた」と言って倒れて死んだ。背負われた人は既に死んでいた。

夕方、目がはれ始め、何も見えなくなった。その日は友人たちと竹やぶで不安な一夜を過ごし、翌朝、諫早から来た治療班の応急処置を受けた。長崎市立商業学校のグラウンドに寝かされていると、知らせを受けた両親が迎えに来た。全身大やけどを負った私の姿に両親は心底驚いた。

馬町の実家にいた両親と祖母、兄弟は無事だった。母は布を薬に浸し私の体に張ってくれた。十一月に大村海軍病院に入院。十二月に左目が見えてきた。

大村での一年二カ月の入院治療を終え退院の日を迎えても、顔や体の右側は汗腺(かんせん)まで焼き切れて真っ黒だった。病院を出て大村駅に向かった。にぎやかな駅の待合室に私が入ると、話し声がパタッとやみ、周囲の人たちが一斉に私を見た。思わずうつむいた途端、涙がボロボロと落ちた。長崎駅までの一時間半、私の横の席だけが空いていた。

家に帰っても人の目が気になった。心を閉ざし、長い間、家の中だけで過ごした。とにかく顔や体を他人に見られたくなかった。「一生家の中で過ごすのか」と言う母に、私は「こんなに黒いなら死んだほうがましだ」と泣いた。

近所の諏訪神社までの道は比較的人影が少ない。私は少しずつ散歩をすることにした。今日は百メートル、明日は百五十メートル。人の目を気にしながら少しずつ慣らしていった。そうするしかなかった。

十七歳で復学。卒業後、万屋町の食料品店に就職。前向きに生きなければと自分に言い聞かせて今まで生き抜いてきた。
<私の願い>
各国の核実験の影響がオゾン層の破壊につながり、地球レベルで危機が迫っている。インド、パキスタンの核実験には怒りを覚えるが、核実験を非難した大国が率先して核を減らさなければ話は進まない。人類が協力することで、澄んだ空を持つ平和な社会が来ることを願う。

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