大原靖次郎
大原靖次郎(71)
爆心地から約1.5キロの三菱兵器製作所大橋工場で被爆 =南高口之津町町名=

私の被爆ノート

遠ざかる意識「自分も…」

1998年10月8日 掲載
大原靖次郎
大原靖次郎(71) 爆心地から約1.5キロの三菱兵器製作所大橋工場で被爆 =南高口之津町町名=

当時、十七歳。長崎師範学校の三年生だった私は、学徒動員で、長崎市の三菱兵器製作所大橋工場で魚雷を造っていた。

あの日も暑く、各地から集まった女子てい身隊や女学生とともに上半身裸で仕事を続けていた。突然、目の前で「ピカッ」とせん光。すぐに機械の下にしゃがみ込んだが、すさまじいごう音と爆風で、気付いた時は六メートルほど飛ばされ、履いていた靴や帽子もなくなっていた。

工場内の鉄骨は曲がりくねり、スレートがわらやガラスの破片が頭上に覆いかぶさってきた。その場に座り込み、頭に手を当て、難を逃れようと必死だったが、頭や両腕は血だらけ。落下物も収まりかけ、外へ出ると、地獄絵のような光景が目前に飛び込んできた。

空中は砂じんや紙片が舞い、薄暗く、あちらこちらで悲鳴が聞こえ、死体が周りに転がっていた。ぼう然として歩き、学校近くまで行くと、急にのどが渇いた。水を飲んだら死ぬと耳にしていたが、たまらなくなった。

田んぼの水を飲もうと歩き出した時、気を失った。意識が遠ざかる中で「これで自分も死ぬんだなあ。両親に会ってから死にたい。長崎中学校の弟はどうなっただろう」と悲しさと悔しさが込み上げてきた。

何時間がたったのだろう。意識が戻り、何とか学校の防空ごうにたどり着いた。学校も騒然とし、先生や生徒らが負傷者の応対で右往左往していた。下級生に寄り添い防空ごうに入ったが、中は負傷者であふれ、痛さ、苦しさのうめき声で悲惨な状態だった。

夜中になり、戸板で担がれ列車に乗せられた。翌朝十時ごろ、川棚駅で降ろされたが、気が付くと車内には多くの人が死んでいた。

駅から近くの工員食堂に運ばれ、初めて治療を受けたが、手が回らず、消毒する程度の簡単なものだった。百五十人はいただろうか。いや応なく飛び込んでくる悲痛な声はここでも同様だった。

その日の夜、同級生五、六人と話をしていると、はいながら私の名前を呼ぶ声がした。顔が黒焦げで膨れ上がり、名札で親しい同級生と分かった。しばらく言葉を交わしたが、その同級生も翌日には息を引き取った。夜中に「お母さん」と泣き叫んでいた十歳ほどの子供も亡くなった。

被爆から三日目の午後、母や兄とともに口之津に帰り、療養後、二カ月ほどで学校に復帰したが、今も右腕に埋まったままのガラス片や上半身に残る多くの傷跡を見ると「あの日」を思い出す。(口加)
<私の願い>
戦争のために国民がどれだけ苦しんだか。平和を願い、核兵器のない世界共存の社会を築き上げなければならない。原爆は私たちだけでもうたくさんだ。

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