当時、私は十六歳。長崎市立商業学校(現・長崎市立長崎商業高校)の五年で、動員学徒として、三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場で作業に従事していた。
あの日、私は数日前から後頭部がはれ上がり、体の調子が悪かったため、午前中から長崎医科大学付属病院(現・長崎大学医学部付属病院)へ行き、三階の待合室で診察を待っていた。周囲の窓に青いせん光が走ったと思った矢先、「ボーン」という音とともに、体が焼けるように熱くなるのを感じた。私は無意識のうちに長いすに潜り込んでいたが、気が付くと周囲は真っ暗で、静まり返っていた。
痛みは感じなかったが、窓ガラスの破片が頭や背中、左手に突き刺さり、全身血だらけになっているのが分かった。とにかく逃げようと階段を下りた。病院を飛び出すまでに、何度も「助けてくれー」という叫び声を聞いたが、逃げるのが精いっぱいで、裏山を必死でかけ登った。
しばらくして同市竹の久保町の自宅の様子が気になり、歩いて自宅へと向かった。その途中、辺り一面は火の海で、焼け焦げて性別が分からない死体や、子供を抱いたまま死んでいる親子の死体もあった。浦上川にも無数の死体が浮かんでおり、まさに地獄絵を見た心地だった。
日も暮れかかったころ、私はようやく自宅に着いたが、自宅は全焼しており、家族はだれもいなかった。その夜は、敵機が長崎上空を飛び回り、照明弾を投下しながら偵察を繰り返していた。私は明々とした夜空を眺めながら、稲佐山のふもとで一夜を過ごした。
翌日、稲佐山で父、妹二人と偶然会った。「無事だったか」という父の言葉で、安どとともに涙があふれてきた。しかし、母とほかの四人の兄弟が即死したことを父から聞き、悔しい思いでいっぱいになった。
二、三日、稲佐山で野宿していたが、汽車が運行していることを知り、四人で父の実家である南高南有馬町に疎開した。妹は二人とも放射能を強く浴びていたため、実家に到着後、すぐに寝たきりになり、終戦の日の十五日に、二人とも苦しみながら亡くなった。
私はそれから約一カ月後、父とともに長崎市内に戻ってきた。現在の同市丸尾町付近では、何重にも積まれた死体が焼かれており、被爆の惨状は言葉で表現できないほど生々しかった。あの時ほど、「死んだ方がましだ」と思ったことはない。
<私の願い>
五十年以上たった今も原爆の悲惨さ、恐ろしさは私の脳裏から離れない。全世界からすべての核兵器とすべての戦争をなくすためにも平和運動を続け、被爆者の思いを伝えていきたい。