当時十三歳。瓊浦中学校の二年生だった。実家は銭座町で食堂を経営していたが、四月ごろから材料不足で廃業状態になっていた。
あの日の朝はいつものように、学徒報告隊として動員先だった長崎駅近くの日本通運に出掛けようとしたが、空襲警報が鳴ったため自宅で待機。まもなく警戒警報に切り替わり、友人三人が迎えに来た。
「遊んでいこう」と友人たちを家に入れ、食堂でおしゃべりをしていると、爆音が聞こえてきた。「いつもの音と違う。警戒警報なのになぜ?」。様子を見ようと玄関まで行ったとき、「ピ力ッ」と光った。「伏せろ」。冷蔵庫とテーブルのすき間に潜り込んだ。気が付くと体に何かかぶさっていた。つぶれた家の下敷きになっていたのだ。「家に爆弾が落ちた」。そう思った。しばらく静寂が続いた。
外にはい出しても真っ暗で何も見えない。「太陽が落ちた」。怖くなり「助けて、助けて」と叫んでも、だれの声もしない。徐々に周囲が見え始めた。見渡す限り家は押しつぶされていた。
しばらくすると、がれきの下から友人たちの声が聞こえてきた。かわらや土をかき分け、三人全員を救出。だが、二階にいた母と二、三歳になる親せきの女の子の声がしない。泣きながらつぶれた家の上を捜して回った。
ふろしき包みの上に乗り周囲を見渡していると、どこからか「おーい、おーい」と声がした。ふろしき包みと思っていたものが、実は母のおしりだったのだ。女の子を抱っこしているところに屋根が落ちてきて、おしりだけが外に出ている格好になっていた。
女の子は無事だったが、母は全身傷だらけ。付近の家が燃え始めたため、必死で山の方に逃げた。途中、兵隊さんの指示で外国人捕虜が入っている防空ごうに一時避難。捕虜たちは自ら大やけどを負っているにもかかわらず、私たちを畳に座らせ水筒を差し出してくれた。それまで学んだ怖い外国人のイメージとは違いとても親切で、涙が出るほどうれしかった。
近くのガスタンクが燃え始め防空ごうが危険になったため、金比羅山を目指しまた歩き始めた。女の子をおんぶし、けがした母を支え、とにかく無我夢中だった。
長崎のまちは溶鉱炉のように燃え盛り、時折「ボーンボーン」と何かが破裂する音が聞こえた。その日は畑で一夜を明かした。
<私の願い>
二十一世紀を生きる人たちにこの体験をしてもらいたくない、私たちで最後にしてほしい。そのためには、核兵器をつくってはいけないし、今ある核兵器をすべてなくさなければいけない。