長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

建物は大破、下敷きに

1998年9月11日 掲載
吉岡 信泰(72) 爆心地から1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =長崎市かき道5丁目=

当時私は十九歳。長崎市銭座町に家族五人暮らしで、大橋町の三菱長崎兵器製作所大橋工場で魚雷の部品製造に携わっていた。あの日は朝からの空襲警報が解除され、避難先の防空ごうから職場に戻っていた。

軍の情報を流すスピーカーが「敵機が長崎に向かっている」と告げた。しばらくして飛行機の爆音が聞こえたが「警報も解除したままだし、友軍機だろう」と思っていた矢先、周囲が桃色のせん光に包まれた。

「ピカッ、ピカッ」と何度も光ったので、身の危険を感じてその場に伏せた瞬間、ものすごい爆風が襲ってきた。机やいすは吹き飛びガラスは割れ、建物全体が「メリメリ」と音をたてた。

しばらくして辺りを見渡すと、建物は大破し天井から空が見えた。「近くに爆弾が落ちた」と思い、逃げようとしたが材木の下敷きで身動きがとれない。同僚に助けてもらったが右わき腹を負傷し、シャツに血がにじんでいた。

工場のほとんどは倒壊していた。建物の一部が燃えだしたが水が無く、やむなく工場の外へ避難した。避難所を探して歩く道沿いに負傷して座り込んだ人の列が延々と続いた。だれもが放心状態で女性は頭髪が逆立っていた。何度も「水を下さい」と求められたが、負傷者は水を与えると死んでしまうと聞いていたので、聞こえないふりをして通り過ぎるしかなかった。

防空ごうにたどり着くと「病院へけが人を運ぶ救援列車が来る」という。西郷(現・西町)方面に同僚と向かったが、道路に大の字になって死んでいる裸の男性や馬の死がい、ドブの中に目と口以外は泥だらけで棒切れのように立ちつくす人など、異様な光景に二人とも言葉を失った。

救援列車に乗り大村に差しかかったころ、長崎の空が真っ赤になっていたのが印象深い。翌日、大村陸軍病院から救援トラックで家族を捜しに長崎へ戻ったが、日見トンネルを抜けると様子が一変。一面に広がる焼け野原に被害のすさまじさを痛感した。実家も跡形もなかったが、家族は皆無事で、互いに喜び合った。
<私の願い>
職場の同僚の多くは被爆後、すぐに亡くなった。私も原爆の後遺症で生死をさまよい何とか一命を取り留めた。米国の「戦争終結のために原爆投下は仕方なかった」という理屈には怒りが込み上げてくる。現代の子供たちには、戦争のない平和な時代が続くよう祈りたい。

ページ上部へ