小溝昭七郎
小溝昭七郎(65)
爆心地から2.3キロの筑後町で被爆 =諫早市栄田町=

私の被爆ノート

熱風の中を懸命に避難

1998年8月27日 掲載
小溝昭七郎
小溝昭七郎(65) 爆心地から2.3キロの筑後町で被爆 =諫早市栄田町=

長崎市の勝山国民学校高等科に一九四五年四月、入学。報国隊の一員として同市内の新聞社で新聞配達などをしていた。当時、十三歳。あの日はJR長崎駅前の販売所に集合。午前十一時前。空襲警報が警戒警報に切り替わったため出掛けた。

筑後町の本蓮寺に着いたところ突然B29のエンジン音。「おかしい」と思った瞬間、吹き飛ばされ意識がなくなった。気が付いたら瓦礫(がれき)に埋もれていた。何も見えない、聞こえない。目と耳をやられたと思い、触ったら大丈夫だった。

電車通りへ出た。血だらけでふらふら歩いている人。助けを求める声。子供を捜し回る母親の叫び声。何かあったら城山の知人のうちへ行くことを家族で決めていたため城山方向へ歩き始めた。間もなく行くと向こう側から人の群れ。皮膚が溶け、髪の毛が焼けた人もいた。「どこに行くとね」と一人に声を掛けられ、「城山」と答えると「全滅している」と言われた。

その群れの中で、友人の一人が背負われていた。自分が代わっておぶった。同級生は虫の息だった。火の手に追われるようにNHK長崎放送局から金比羅山へ逃げた。街が燃えているためか吹き上がってくる熱風と太陽の日差しが熱かった。逃げ場を失った人たちが集まっていた。「背中の人は死んどなっとるよ」と声を掛けられた。疲れもしていた。母親のことも気になった。草で丁寧に枕(まくら)を作って友人を背中から下ろし寝かせた。周りの人に「お願いします」と言って後にした。

翌日、諏訪神社の防空壕(ごう)辺りで見覚えのある姿を見つけた。母親だった。「あんたも生きとったね」。弟も無事だった。それから防空壕での生活。食料は近郊からにぎり飯が運ばれて来た。暑さで表面は腐っていたが、中の梅干し周辺は食べることができた。しかし元気な人もポロポロ死んだ。湿気がひどかった。脇(わき)や膝(ひざ)の裏側に黴(かび)が生えてきた。

長崎を出ることを決め、母親の親せきがいる小長井へ列車で向かった。大橋付近には多くの人が折り重なるように死んでいた。手を合わせて通り過ぎた。諫早駅に着くと家並みがあった。焼け野原となった長崎。あまりの違いに驚いたことを覚えている。
<私の願い>
中学校で美術の教師をしていたが被爆から約四十年たって当時をやっと話せるようになった。昨年は空白の二十時間という絵の制作にも取り組んだ。戦争の悲惨さ、平和の尊さを子供たちに伝えることが使命と思っている。

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