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私の被爆ノート

兄弟、親せき23人逝く

1998年8月13日 掲載
安井 幸子(59) 爆心地から0.9キロの目覚町の自宅近くで被爆 =長崎市八つ尾町=

当時六歳。銭座国民学校一年だった。目覚町の自宅近くで四人の友人とままごとをしていたら、飛行機の爆音が聞こえてきた。友人の一人が「敵機来襲。伏せてください」と言ったので、みんな伏せた。ものすごい音と光を同時に感じた瞬間、がれきの中に生き埋めになり、砂が口の中にザーッと入ってきた。近くで女の子二人が「お母さん助けて」と二回叫んだが、それ以後、声は途絶えた。二人の声を聞き付けた母と叔父に私は救出された。

母と叔父は友人たちを抱え、私は母の服をつかみ金比羅山中腹まで逃げた。友人たちは口や鼻に土や砂が詰まり窒息死していた。いつも遊んでいた友人の死を見ても、涙も出なかった。人々がやけどを負い、ぼろ切れのような皮膚を引きずり山をはい上がってきた。「水をくれー」という声が頻繁に聞こえた。

自宅療養中だった十四歳の長兄は、熱線で肩を焼かれたが、自力で山を登ってきた。セミ取りをしていて被爆した十歳の次兄とも合流できた。自宅には四歳の妹と二歳の弟もいた。妹は叔父が助けだしたが、弟は遠くに吹き飛ばされ死んでいた。母は涙も流せなかった。私たちは金比羅山から、ただ長崎の街が燃え尽きるのを見下ろすだけだった。

大浦にいた父が来たため、一緒に島原まで避難することになった。夜、列車が出る道の尾駅に向かって歩き始めると、暗やみで何かにぶつかった。大人と子どもの黒焦げの死体だった。

島原駅に着くと、次兄が吐き気と高熱に襲われた。島原の病院へ入院したが、十日後、きれいだった髪がバッサリ抜け落ちた。二十四日の夜、私に「さっちゃん、さよなら。後は頼む」と言って息絶えた。

山あいの親せきの家に預けられていた長兄は八月末、肩の痛みを訴えた。肩は紫色にはれ腐敗する寸前。次兄と同じ症状が出て、なすすべもなかった。父が敗戦を告げると、長兄は「大人が勝てると言ったから頑張った。どうして負けたか説明してくれ」と言った。父は泣いた。兄は「日本や家族のためにぼくが特攻隊になったつもりで海ゆかばを歌ってくれ」と言った。父が海ゆかばの一小節を歌い終わった時、兄は息を引き取った。

九月四日、命の恩人の叔父が「のどに千本の針を打たれたみたいだ」と言いながら死んだ。一カ月以内に兄弟と親せき二十三人が亡くなり、うち二人はどこでどう死んだか手掛かりもつかめないまま五十三年が過ぎた。
<私の願い>
長崎で受けた痛みは、世界の至る所で戦争の被害者が受けている痛みと同じ。世界で起きた戦争の歴史を受け止める感受性を持つことで、平和を考える心が培われる。静かな心で語り合い、相手の立場と苦しみを理解することが核兵器の廃絶にもつながるのだと思う。

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