当時、十八歳。長崎青年師範学校本科女子部の二年生だった。学徒動員で長崎市の三菱兵器製作所大橋工場で魚雷の部品を作っていた。その日、警戒警報が聞こえたが、地下の道具置き場で探し物をしていて逃げそびれ、工場内にいた。
その時、空からワーンという大音響が起き、辺りが真っ暗になった。空襲で直撃されたと思い、しばらくかがみ込んだままでいた。近くにだれもいなかったので、自分は死ぬと思った。そのうち「助けて、助けて」と叫び声が聞こえ、自分は生きていると分かった。
赤迫にあるトンネル工場を目指して逃げる途中、たくさんの人が倒れていた。かき分けかき分け、必死で逃げた。倒れている人の中に大橋工場の同級生もいた。空襲警報でいったん逃げ、解除で工場に戻る途中に原爆に遭ったらしい。私は逃げ遅れたため助かった。
諫早市の叔母に救いを求めようと道の尾駅に行ったが、負傷者でいっぱい。腹部が裂け、腸を抱えて支えられながら乗り込む人もいた。そんな人が優先的に乗せられ、私の番は来そうになく、その夜は畑に負傷者と一緒にごろ寝した。
翌朝、どうにか汽車に乗り込んだ。叔母の家にたどり着き顔や腕の打撲の傷を手当てしてもらい、そのまま夕方近くまで眠った。実家の南高西有家町から父が来てくれ、私を見て「よかったー」と涙を流した。「消防団から長崎に新型爆弾が落とされたと聞いた」と言っていた。
その日のうちに父と二人、長崎医科大学付属医学専門部の二年生だった兄を捜しに、線路を歩いて長崎市に向かった。長与で私の同級生の家に一泊したが、眠れないまま翌十一日、まだ夜が明けきらない早朝に学校を目指した。
私が寝泊まりしていた住吉寮は燃えてしまっていたが、大橋工場はまだ炎があった。死体がるいるい、山のように積まれ、消防団の人たちに、だびに付されていた。骨組みだけの電車に、客がつり革にぶら下がったまま、運転士も運転姿勢のまま黒焦げになっていた。
大学病院にたどり着き、生存者の名前の張り紙に兄の名前を見つけた。「よかったー」と父と喜び合った。
しかし収容先が、だれに聞いても分からない。結局、兄の友人を見つけ「教室の窓際に座っていて爆風で飛ばされて死んだ」と聞いた。ぬか喜びだった。
「しまいじゃ」と漏らした父の、あの時の悲しみの顔を思うと、今もたまらず涙してしまう。
<私の願い>
絶対に核兵器を使わせてはいけない。たとえ正義のためといっても核実験はいけない。核保有国は地球を滅亡に導く墓掘り人。命を大切にする声をもっともっと大きくしたい。それが、生き永らえた自分の使命と思っている。