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私の被爆ノート

火の海となった駅前

1998年7月30日 掲載
中村 米子(73) 爆心地から3キロの長崎市万才町で被爆 =佐世保市瀬戸越3丁目=

当時二十歳。県庁前にあった長崎日報(政府の一県一紙とする言論統制で四紙が合併。一九四五年七月、長崎新聞と改題)で働いていた。実家の五島・久賀島を離れ、飽の浦町で兄と二人暮らしで、日に日に激しくなる空襲に「何が起きるか分からない。自分の身は自分で守らねば」と酷暑の中、長そでシャツとズボンは二枚重ねで、包帯などが入った救急袋は常に身に着けていた。

その日、会社の一階で机に向かっていると、稲光のような光線がし、とっさにいすの後ろにあった防空ずきんを顔に覆い、身を伏せた。ものすごい音がし、何が起きたか分からなかった。しばらくして顔を上げると、部屋は粉じんで真っ暗。人影はなかった。幸いけがはなかった。

玄関の鉄のドアが開かず裏口から外へ出ると、「無事だったのか」と同僚の声。上階からは、ガラスの破片などが腕や背中に刺さり、血だらけとなって下りてくる人もいた。

防空ごうに逃れたが「駅前が火の海。ここは危ない。逃げろ」と言われ、同僚六人と金比羅山に向かった。途中で「ここはどこですか。光で目が見えなくなりました」とさまよう男性の姿も見掛けた。

山には大勢の人たちが火から逃れて集まっていた。山頂から振り返ると、長崎全体が真っ赤な火の海のようで恐ろしさに立ちすくんだ。救急袋に入れていた小さな弁当箱の「豆かすごはん」を一口だけ食べ、六人で回した。二日目はなかった。

翌日、稲佐橋を渡って家に帰ろうと、まだ地面が熱い焼け跡を歩く。松の木の皮をむいたような真っ黒になった死体が積み重ねてあった。ぬらしたタオルを鼻に当てていたが、何とも言えないにおいだった。「水をください」とうめき声を上げる人たちにも「すみません、ごめんなさい」としか言えず、地獄のような光景だった。

家に着くと、帰りを待っていた兄が「おまえが死んだら、親に何と言えば─」と涙を流して無事を喜んでくれた。終戦を迎えた八月十五日、船で実家に戻った。親はありったけのごちそうを作ってくれたが、まだ鼻を突いたあのにおいが離れず、何にも口にできなかった。

無残な記憶は今でも鮮明によみがえる。
<私の願い>
核がなければ、こんな悲惨なことにはならなかった。核を持つのは許されない。なぜ今、核実験なのか。こんな体験は私たちで最後にし、今すぐに核を全世界からなくしてほしい。

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