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私の被爆ノート

苦難の日々の始まり

1998年7月23日 掲載
山口 仙二(67) 爆心地から1.1キロで被爆 =長崎市西北町=

当時、私は十四歳。旧県立工業学校の夜間部に入学した年で、動員学徒として大橋の兵器工場で朝から晩まで働かされていた。空襲が激しくなって、七月ごろから工場の防空ごう掘りを交代で始めた。

八月九日。パンツ一枚の姿でクワを握り、防空ごうを掘っていたときだった。ピカッと稲妻のような光線が走り、ばたりとごうの中で倒れた。原爆の熱線が私の上半身を黒焦げにした瞬間だった。

どれくらい倒れていたか分からない。意識が戻って立ち上がると、さっきまで一緒に作業していた同僚たちの姿がない。工場は火柱を上げ、鉄骨がグニャリと曲がっていた。

本原方面の山の方に人々が逃げていくのが見えた。訳も分からず私も同じ方向に走りだした。山の開けた所に二百人ぐらいの人が集まっていた。人々の顔はヤカンのように膨れ上がり、男か女だか分からない。うずくまった私は自分の体の異常にふと気付いた。両手や腹が黒焦げになり、はれ上がっている。目の前では、切れかかった首がぶら下がった赤ん坊を母親が抱き、行ったり来たりしていた。周囲では「お母さん」と呼ぶ声がだんだん小さくなった子供が死んでいった。

その後、山から工場付近まで下りて救援列車に必死にはい上がり、大村の海軍病院に運ばれた。病院に収容されて三日目に危篤状態に。もうろうとした意識が続き、約四十日後に意識を取り戻した。ベッドのそばに立つことができた日、病院の中庭に咲き乱れたコスモスを見た。

焼けただれた上半身にはウジがわき、針で刺されるようにウジにかまれた。治療でガーゼを取り換えるときは、ただれた肉にめり込んだガーゼを一気にはがされるときの激痛で失神した。血便や紫斑点(はんてん)など急性放射能障害も加わり体は骨と皮になった。

翌年三月に退院したが、熱傷のため口や両腕、首は曲がったまま。病院から田舎に帰る道すがら自分の変わり果てた姿が恥ずかしく下ばかり見て歩いた。

奇跡的に一命を取り留めたが、退院後は、白血球減少や黄疸(おうだん)など原爆後障害、あるいは就職差別などに悩まされる苦難の日々が始まった。
<私の願い>
核保有国が核兵器全面禁止条約を結ぶように一日も早く動き出してほしい。すべての願いはこの一言に集約される。

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