技術者になれば召集を免れると考え、福岡県の学校を卒業後、長崎市茂里町の三菱長崎製鋼所へ入社。部署は工作課整備係。各工場の機械の修理や増築などに当たっていた。
「ピカドン」の「ドン」の音は聞いていない。警戒警報が解除されたので近くの防空壕(ごう)から工場に戻り、配給のげたの鼻緒をたててもらうため、詰め所に来ていた時だった。ピカッと光った方を見た後、記憶がなくなった。
どれくらい時間が経過した後だろうか。名前を呼ぶ声で意識が戻った。爆風で机の下に吹き飛ばされていた。声がする方を振り返ると、壊れた建物の下敷きになった女性が二人。一人は片方の目玉が飛び出していた。
静まりかえっている。時々「ウーン」と腹の底から絞り出すようなうめき声が聞こえる。木片をかき分けてはい出た。工場の鉄骨は押しつぶされたようにグニャリと曲がり、トタンはおしめを干したようにぶら下がっている。人影はない。
突然、負傷した男に足をつかまれた。「助けてくれ」と言って離さない。背負って運び出す。足の大腿(たい)部から骨が飛び出して動けずにいる同僚も助け出した。浦上川を対岸に渡り、稲佐山へ向かう。道端で車が燃えていた。それにもたれかかる男の服にも火が付いていた。川べりに無数の死体や負傷者。道にも焼けただれた人が転がっている。何も思わずにその場を通り過ぎていた。
翌日、工場へ行くと、黒焦げになったり白骨化した同僚の死体があちこちに転がっていた。食糧の調達に南高へ行くよう命じられた。二台のトラックのエンジンをかけると「乗せてくれ」と負傷者がぞろぞろ集まった。諫早まで乗せた。
干々石で食糧を集め、帰ろうとしたら動けなくなった。下痢と高熱が続き、髪の毛も抜け歯茎から出血。叔父の家で四カ月も寝込んでしまった。床ずれで背中には五、六センチの穴が開いた。翌年一月、会社へ行くと、死んだと思われていた私が元気な姿を現したので、みんな驚いた。
一九七七年ごろ、被爆直後に痛みを感じていた右腕が上がらなくなった。医者は首の骨が変形しているので訓練で治すしかないという。四年前、今度は腰から下に力が入らなくなった。脊椎(せきつい)管狭窄(きょうさく)症と診断された。手術を受けたが治らない。夜になるとズキン、ズキンとうずく。つえを使わないと歩けない。原爆と関係ないのだろうか。
<私の願い>
一人でも多くの人に被爆の悲惨さを知ってもらいたい。インドとパキスタンの人々が、核実験成功を手をたたいて喜んでいる姿は歯がゆかった。原爆の恐ろしさを知らないからできるのだと思った。原爆のない、争いのない世の中になってほしい。