当時、私は二十四歳。県立長崎高等女学校を卒業後、長崎市万才町の長崎地方裁判所で検事局裁判所書記として働いていた。既に父は亡く、母と二人で同市麹屋町に暮らしていた。
空襲警報があるたび登庁せねばならず、いつ呼び出しがあるか分からない毎日。「あの日」は、朝から空襲警報があり、業務をこなしていた。
原爆が落ちた瞬間は、「ズドーン」と腹に響くような音で建物が揺れ、続いて何かが空中で破裂する感じがした。建物は倒壊こそしなかったが、屋根がわらが外れていた。「浦上方面に新型爆弾が落ちた」という情報が入り、全員で重要書類を防空ごうに運び込んだ。私は夕方ごろに帰宅したが、裁判所はその後に発生した火災で焼け落ちてしまった。
翌日は、上司と同市岡町の長崎刑務所浦上刑務支所に視察に行った。長崎駅を越えた辺りから様子が一変し、浦上方面には遮る物がなく、ただ空があるだけで、初めて原爆による被害のすさまじさを知った。
がれきに転がる無数の死体。血まみれの赤子を背負い、首がなく絶命した子を放心状態でひきずる女性。黒焦げになった死体は男女の見分けもつかない。途中で同行した憲兵隊長が「幾度も戦地に行ったが、こんな死体は見たことがない」と言っていたのが印象深い。
爆心地に近い同支所は壊滅状態。分厚い壁は粉々に砕け、鉄筋がしだれ柳のようになっていた。周囲の社宅もぺちゃんこにつぶれており、動転した。今となっては粉々になった壁の記憶だけが鮮明だ。
道すがら、多くの人たちからもんぺをつかまれ、虫の息で「○○に知らせて」とあちこちの地名を告げられた。筆記具がなく、望みをかなえられなかったが、遺骨が見つからなかった遺族の話を聞くにつけ、後悔の念が込み上げてくる。
こうして平和な世の中になり、おいしい物を食べるたびに涙が出てくる。食うや食わずの時代を耐えた何万という人たちが、あの一発で亡くなったことを思わずにはいられないからだ。
<私の願い>
今つくづく考えると思慮分別を強くしてどうしてあの戦争に“ノー”と言えなかったのか。多くの人命が失われてしまった。現在の核爆弾は昔の比ではないと聞く。政治に対し批判すべきは批判し、言うべきことを言える子供たちを育てないといけないと思う。