当時十一歳。その日、父は朝から勤務先の長崎駅構内にある国鉄長崎保線区に、兄も同じく学徒動員で同通信区に。姉は長与駅で働き、母は浦上駅にあった配給所に米をもらいに行った。
自宅に残ったのは私と四人の妹たち。暑かったので庭の池で水遊びなどしていた時、妹の一人が「日の丸を付けた飛行機が飛んできた。でもなんか音が違うね」と言った。すると突然、「ピカッ」と光り、しばらくして「ドオーン」というものすごい音が。みんな急いで家に入った。
部屋の中に寝せていた一番下の二歳の妹は、落ちてきた壁の下敷きになっていたが何とか無事。自宅に防空ごうがなかったため、妹たちを連れ庭下の竹林に逃げ込んだ。
「爆弾ば落とされるけん、泣かんとよ、泣かんとよ」。身をひそめて怖がる妹たちを必死になだめているうちに、隣のおばさんが迎えに来て防空ごうに入れてもらった。
「白い布団を干してたら敵に見つかってしまう。何で早く入れんかったか」。しばらくして、防空ごうの外から怒鳴り声が聞こえてくる。配給所から帰ってきた母だった。この声で緊張がほぐれたのか、みんな一斉に泣きだしてしまった。
母は、鉄道電話で父や兄と連絡を取るため、姉がいるはずの長与駅に向かった。しばらくして母は戻ってきた。「三人とも死んだかもしれん。捜しようがない」。兄と父とは連絡が取れず、姉は駅長の使いで浦上駅に行ったとのこと。みんながく然とした。
夜遅く突然、父が帰ってきた。線路の点検か巡回か分からないが、とにかく仕事で諫早に行っていて無事だったらしい。父は休む間もなく、弁当、水筒を持って姉、兄を捜しに出掛けた。姉は浦上駅の建物の下敷きになり、死んでいたという。長崎駅にいた兄は近くの防空ごうに避難したが、大やけどを負っていて、長与駅近くの診療所に運ばれていた。
何日か過ぎて、変わり果てた姉が自宅に戻り、みんなで葬式をした。母は九十四歳で亡くなるまで「(姉のことを考えると)つらか、つらか」と繰り返していた。
<私の願い>
インド、パキスタンの相次ぐ核実験などを考えると、将来、地球はどうなるのだろうか、と不安になってくる。戦争を知らない若い世代は戦争体験者の声に真剣に耳を傾け、心に残してほしい。