山脇 源司
山脇 源司(73)
爆心地から1.9キロで被爆 =対馬豊玉町塩浜=

私の被爆ノート

初の長崎訪問が悪夢に

1998年6月25日 掲載
山脇 源司
山脇 源司(73) 爆心地から1.9キロで被爆 =対馬豊玉町塩浜=

初めて長崎を訪れた日に被爆するとは思ってもいなかった。徴用を受け、佐世保市で海運の仕事をしていた。貨物用の船を引き取るため、海路で朝、長崎港へ入った。午前十時半ごろ、空襲警報が解除された。「さあ、仕事だ」。暑かったので、船室でシャツを脱ぎ、窓から身を乗り出したときだった。

突然、白いせん光に覆われ、次の瞬間、赤い炎が目の前に迫った。気が付いたら、吹き飛ばされ、船室の壁を背にしていた。

起き上がり、船室の窓から外を見た。大きなきのこ雲がもくもくと上がり、さっきまで晴れていた空が、今にも泣き出しそうになった。横に係留していた船は沈み、外で作業していた仲間は海に吹き飛ばされていた。

激痛の走る上半身を恐る恐る見た。体は炭を塗ったように真っ黒だった。船を降り、仲間と病院を探すため見知らぬ街をさまよった。旭町まで約一時間ほど歩いた。行く先はがれきが広がるだけだった。「この様子では病院も治療どころではないな」とあきらめ、船へ戻った。

船は幸いにも無事だった。三日間、長崎港沖でいかりを下ろして待機したが、治療が受けられず、生きた心地がしなかった。ほおの下は水がたまり、こぶになった。やけどのひどかった胸、腹、腕などを冷やす水もなく、ただポトポト滴り落ちる汗をふき取るだけ。傷口は化のうし、ウジもわいた。

佐世保市の海軍病院に収容されたのは、原爆投下から四日後だった。病室は四階、空襲警報のたびに、階段を降りて防空ごうへ避難するのは、体にこたえた。ベッドを移した防空ごうの中で、終戦を迎えた。正直言ってホッとした。

あれから五十年以上がすぎた。戦争の怖さは薄れつつある。しかし、健康診断を受けるたび、原爆症の恐怖にかられる。
<私の願い>
広島、長崎で多くの人が犠牲になり、核兵器の恐ろしさが分かっていても、開発を進める国に怒りを覚える。こんな苦しみを味わうのはわたしたちだけで十分。孫、ひ孫の世代には、核兵器のない世界を、と願う。

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