佐久間洋子
佐久間洋子(58)
爆心地から約3.7キロの岩瀬道町の自宅近くで被爆 =長崎市春木町=

私の被爆ノート

全身包帯で帰ってきた父

1998年6月18日 掲載
佐久間洋子
佐久間洋子(58) 爆心地から約3.7キロの岩瀬道町の自宅近くで被爆 =長崎市春木町=

当時五歳。空襲が激しくなった春ごろから、女性や子供、お年寄りは昼間、数十人で近くの林の中に集団避難していた。近所に爆撃の対象となる三菱長崎造船所があったからかもしれない。朝食を済ませると、母は針仕事の道具などを、私は弁当を持って、歩いて十分ほどの林の中へ。毎日が遠足気分だった。

父は三菱長崎造船所幸町工場で捕虜の監視業務に従事。その日は朝から仕事に出掛けたと思う。

ちょっと早いけど昼食にしようと、弁当を広げた途 端、強い突風に襲われた。私は慌てて木にしがみついたが、母は斜面を数メートルずり落ち立ち木を背に止まった。

大人たちは「近所に焼夷(しょうい)弾が落ちた」とざわめき、私はおにぎりが谷間に転がり、食べられないと泣いた。周囲の人から「泣けばもっと腹減る」と怒られたのを覚えている。

しばらくして、集落の様子を見に行っていた数人の大人たちが戻ってきた。「家が壊れた」「大きな岩が落ちていた」「畳が全部めくれていた」と報告し合っている。不安になった私たち親子は大急ぎで自宅に戻った。壁は落ち、雨戸や障子は外れ、畳がめくれていたが、屋根が落ちていなかっただけ幸いだった。

父は夜、帰ってきた。全身包帯だらけ。暗がりの中に浮かび上がる真っ白い姿には、腰を抜かすほど驚かされた。父は工場の詰め所で新聞を読んでいたところ、爆風で床にたたきつけられたという。すぐさま、構内を走り回っていた捕虜たちを連れ、稲佐山に避難。体中にガラスが突き刺さっている父を心配した捕虜たちが、ありったけの包帯を巻いてくれたという。

十五日、大人たちは近所で唯一ラジオがある家に集まり、終戦を聞いた。父はあぐらをかいた膝(ひざ)の中に私を座らせ「もう空襲はなか、防空ごうに入らんちゃよか」と、自らに言い聞かせるようにつぶやいていた。

健康だった父は次第に病気がちになり、「これ以上、勤めると会社に迷惑を掛ける」と、私が高校を卒業すると同時に退職。その後も入退院を繰り返した。

私も、体中におできができるなど病気の連続。さらに中学校から高校にかけ、喘息(ぜんそく)の発作が出始め母を悩ませた。
<私の願い>
あんな悲惨な体験を二度と子どもたちにはさせたくない。当時避難していた林の環境は大きく変わり、私たち被爆者が一人でも多くの人に原爆体験を伝えなければならないと思う。

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