中島 勇夫
中島 勇夫(63)
爆心地から3.2キロで被爆 =佐世保市瀬戸越2丁目=

私の被爆ノート

顔半分に光線浴びた兄

1998年6月11日 掲載
中島 勇夫
中島 勇夫(63) 爆心地から3.2キロで被爆 =佐世保市瀬戸越2丁目=

長崎市銀屋町(現在の古川町と鍛冶屋町の一部)の伯母の家に住んでいた。当時は小学生。家の前の路地で遊んでいたら、ピカッと光り、ドーンという音がした。中島川から二、三百メートル先で真っ黒い煙が上がったので、そこに爆弾が落ちたと思い急いで家の中に入った。

ところが家に入ると畳やたんすがひっくり返り、仕事が休みで昼寝していた父はたんすの下敷きになっていた。父はそのときは打撲で済んだが、その後、浦上地区にあった職場の後片付けをしていたためだろうか、五、六年後に亡くなった。

わたしは家と家の間の路地にいたため無事だったが、動員で長崎駅にいた四つ違いの兄はたまたま機関車の窓から顔を出したときに光線を浴び、顔半分をやけどした。

被爆後十日から二週間たってから、姉と二人で長与駅付近に収容された兄を見舞いに行った。交通手段はなく、徒歩で長与へ。市内のあちこちでは木材を「井」の字型に積み上げ、その中で亡くなった人を荼毘(だび)に付していた。

引き取る人もなく身元確認もできないまま、多くの死体が大八車に乗せられ、ごみのように次々投げ込まれ、焼かれた。あの光景はいまだに忘れられない。

長与に着くと、兄は転がる死体に交じってむしろの上に寝かされていた。兄の変わり様に「兄ちゃん、死ぬなよ」と声を掛けたら、「頑張るけん」と答えたような気がする。

ふと隣を見ると、女の人がスイカを割ったように頭が割れ、亡くなっていた。その後兄は入院。銀屋町に帰ってきたときには、よく生きて帰ってこれたと、しみじみ思ったことを覚えている。

原爆が落ちる前に浦上地区から銀屋町に引っ越していたので、亡くなった方には申し訳ないが運がよかった。生き残れただけでもありがたい。
<私の願い>
インド、パキスタンの核実験競争が世間を騒がせている。保有国が一斉になくさなければならないと思う。子供ながらに毎日毎晩のように空襲警報を経験してきた。子供や孫の世代には戦争をなくし平和な生活を送ってもらいたい。

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