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私の被爆ノート

近所では火葬が日常に

1998年5月28日 掲載
計屋 道夫(61) 爆心地から約3.8キロの十人町の自宅で被爆 =長崎市五島町=

当時八歳。佐古国民学校の二年生だった。約半年前まで東京に住んでいたが、大空襲があり住めなくなったため、父の勤め先の出張所がある長崎に家族で引っ越してきた。

あの日は友人たちや三つ年上の兄と一緒に、浦上川に魚釣りに行く約束をしていた。だが朝になって、母が兄と私に「夏休みの宿題をやってから行け」と言いだした。しばらくの間、「行かせろ」と食い下がったが結局、私たちは泣く泣くテーブルに着き宿題を始めた。

一週間ぐらいサボっていた絵日記を書いているとき、間近に「ピカッ」と光が見えた。近くに爆弾が落ちたと思い、すぐに体を伏せた。次いで強烈な爆風。

自宅が高台にあったためか、割れたナイフのような窓ガラスが、壁に突き刺さるほどの勢いで飛んできた。家は半壊。中学生の兄がガラスでけがをしたものの、私や母は無事。急いで自宅の玄関に掘っていた防空ごうに入った。

その後、浦上に大きな爆弾が落ちたと聞いた。もし、あのまま友人たちと浦上川に釣りに出掛けていたら、私はどうなっていただろうか。

翌日から、爆弾の犠牲になった人々の火葬が近所のあちこちで始まった。廃材を積み重ね、その上に死体を置いて火を付ける。入れ代わり立ち代わり人は代わっても、毎日毎日、この作業は繰り返される。恐ろしくて近寄れなかったが、遊びながらいつも遠くで見ていた。そのうちこうした光景が日常となり、幼いながらも“死”を身近に感じるようになっていた。

十五日、自宅で終戦を迎えた。警報が鳴ったら防空ごうに入るという窮屈な生活から解放され「自由に外で遊べる」と喜んだ半面、戦争に負けた悔しさもあったことを覚えている。

戦中、海軍兵学校に行っていた八人兄弟の一番上の兄は私のあこがれであり自慢だった。さらに、子どもながらに国のために死ぬことを誇りと思い、学校では大好きな軍艦や戦闘機の絵ばかりかいていた。まさしく兵士予備軍。そういう教育を受けていたのだ。

当時の記憶はだいぶ薄れたが、もっとも影響を受けやすい年代に、多くの人の死や爆弾、貧しさと隣り合わせで生きていた。人間らしい感情などなかったかもしれない。
<私の願い>
核兵器を使用するしないにかかわらず、戦争は決してあってはならない。悲惨で無情な戦争体験をもつ戦前世代と、平和な時代に育った戦後世代。互いに謙虚な気持ちを忘れず、足りない部分を素直に学び合うことが大切なのでは。

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