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私の被爆ノート

背後から光線受け失神

1998年5月21日 掲載
和田 静(67) 爆心地から1.7キロの昭和町の路上で被爆 =五島有川町有川郷=

親元を離れて、長崎市昭和町の親類宅に下宿していた。純心高等女学校=当時=の三年生に在籍する十四歳だったが、既に授業はなく、学徒動員で大橋町の造船所で働いていた。

この日は、体調がすぐれないため、朝から長崎駅近くの病院で診察を受け、午後一時からの出番に間に合わせようと、水田の間を通る道路を親類宅へ急いでいた。空襲警戒警報が出されており、何となく不安な心持ちでいたところ、飛行機の爆音らしい音が聞こえた。「もしかして敵機ではないか」と思った直後、背後から光線を受け、「熱い」と感じると同時に失神していた。

どのくらい時間がたっていたか分からないが、気がつくと、道沿いの水田に落ちており、顔を上げると目の前の家が今にも崩れ落ちそうな勢いで燃え盛っていた。夏服の背中はくすぶり、はだしだったため、かかとまでやけどしていたが、「とにかく下宿へ」と人の流れに合わせて田んぼの中を歩いた。逃げてきた周りの人は夢遊病者のようにぼう然とした表情で、川平町方面へ向かっていた。中には顔の皮膚がはげてぶら下がったまま歩いている子供もいた。

幸い、倒れた現場から下宿までは遠くなく、下宿前の小川のほとりに避難していた親類たちにほどなく会えた。建設業を営んでいた親類は早速、小屋を建ててくれ、中で休んでいたが、飛行機の爆音が聞こえるたびに、光線を受けた瞬間が思い出され、恐怖症のように体が震え、近くの防空ごうに避難させてもらった。しばらくは腹痛、下痢、血便を繰り返し、終戦の日まで何をしていたかよく覚えていない。

原爆投下から一週間後の十六日、五島有川町出身の学生の保護者たちが仕立てた船で迎えに来た母は、大波止の港から昭和町まで歩く道すがら、くすぶっている馬の死がいを見掛けたと話していた。出港するまでほとんど屋内にいて長崎市内の被爆直後の風景は見なかった。

翌春、学校は大村市に移転して再開したが、在校生六百人のうち、二百七十六人が亡くなっていた。復学はしたものの、やけどが回復せず、開墾作業や体育の授業が免除される「優待組」に組み入れられた。特にかかとのやけどは化のうを繰り返し、完治するまでに一年以上かかった。
<私の願い>
反核・平和が叫ばれている中、まだ、世界各地で争いが続き、核実験も強行されているのは、本当にやり切れない思いだ。戦争や被爆は子供や孫たちには絶対に経験させたくないし、銃や爆弾はなくしてほしい。

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