松浦市星鹿町(旧北松新御厨町)で漁師をしていたが、十五歳で徴用された。
「人生最悪の日」はそれから二年後。長崎市大浦町の川南配給本部で運搬船の機関長を務めていたが、当時は空襲で船が故障したため陸上勤務だった。
同僚と荷馬車を引き、同本部から長崎駅の方へたばこを受け取りに向かう途中、空襲警報が鳴った。数時間前に警報が解除されたばかり。「またか。昼からは休みだな」と思い、同本部へ戻り始めた時だ。
背後から「バリ、バリ、バリーッ」と雷が落ちたような音が聞こえた。反射的に振り返りつつ体をかがめ、両手で頭を隠した。その一瞬後、周囲を爆風が通り抜けた。ガスに火を付けたときのような炎を伴った「青い爆風」だった。
三分間もかがんでいたろうか。顔を上げると一面がれきの山。自分はといえば、半そでシャツ、半ズボン姿だったため、駅方向に向けて露出していた右腕と右足がひどいやけどで、服も焦げてぼろぼろ。同僚二人も同じありさま。荷馬車は吹き飛ばされたのか姿が見えなかった。
取りあえず近くにあった防空ごうに潜り込んで三十-四十分様子を見た。一緒になった憲兵は「焼い弾だろう。傷に触るとひどくなるぞ」と話していた。
いったん同本部に戻ってから、大波止の救護所で手当てを受けた。死体処理に携わった星鹿出身者と会ったら「それぐらいで済んでよかったな」と言われた。あらためて街並みを見ると古い家はほとんど倒れ、あちこちで火の手が見える。悲惨としか言いようのない状況だった。
それからトラック、列車を乗り継いで星鹿の実家にたどり着いたのは十一日の朝。安心したのか二日間、眠り続けたが、その間、母親がツワの葉を何枚もあぶってやけどの部位に張り付け手当てしてくれた。そのおかげで一カ月後にはほぼ完治。跡も残らず、産毛さえちゃんと生えてきた。
戦後はまた漁師に従事した。他人に言うことはなかったが、被爆前に比べ疲れやすく、目まいや頭痛がすることも度々あった。だが、犠牲になった人たちのことを考えれば、幸せな方だったのだろうとも思う。
<私の願い>
戦後五十二年を過ぎ、戦争体験の風化が指摘されている。だが、核兵器が悲惨な結果しか生まないのはいつの世も変わりはない。次の犠牲者を出さないため、われわれが平和運動の礎となり核兵器の全廃を実現させたい。