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私の被爆ノート

生き延びた家族も次々と

1998年5月7日 掲載
山田 拓民(66) 爆心地から約3.3キロの県立長崎中学校で被爆 =西彼三和町晴海台=

当時十四歳。県立長崎中学校の二年生だった。あの日は朝から空襲警報が鳴ったが、それまでさほど大きな空襲に見舞われたことがなかったため、気にせず嗚滝町の学校へ歩いて行った。教室に着いても授業は始まらず、友人たちとおしゃべりをしていた時、何とも言いようのない光が飛び込んできた。

「危ない」と思い、目と耳を押さえて机のすき間に腹ばいになった瞬間「ガアー」というものすごい音。床が揺れる感じがした。そして静まり返った。

辺りはほこりだらけ。窓ガラスはなく、天井は落ち、壁にはひびが入っていた。外を見ると近くの民家のかわらはめちゃくちゃ。だが、爆弾の落ちた形跡はなかった。「大空襲が始まる」と思い、怖くて動けなくなった。

昼すぎ、先生に帰れと言われ、城山町の自宅に向かった。長崎駅に近づくほど火災はひどくなり、危なくて前に進めない。仕方なく金比羅山経由で帰ることにした。途中、大やけどを負った人々が登ってきたが、怖くてたまらず、話しかけられないよう目を合わせずに歩いた。

下大橋付近は、死体が吹き寄せられたように集まり、浦上川は死人やけが人でいっぱい。家族のことが心配になり家路を急いだ。

自宅はつぶれていたが、母や兄弟たちは近くの防空ごうに避難していて無事だった。特に大きなけがもなく、みんな死んだと思っていただけにとてもうれしかった。

だが十二日、生後九カ月の弟が突然死んだ。さらに翌朝、目が覚めると姉も死んでいた。残った母、弟、私の三人で遺体を焼いた後、遺骨を手に祖母のいる諫早へ。行方不明だった父とは諫早の病院で再会した。長崎商業の教師だった父は教え子の動員先の三菱兵器大橋工場で大やけどを負い、汽車で運ばれたらしい。

父を必死で看病していた母は、次第に体が動かなくなり二十三日、息を引き取った。翌日、下痢をしていたためか赤痢と診断され隔離病棟に入院していた弟も死んだ。なぜ死んだのかよく分からなかった。とにかく残ったのは大けがをした父と私の二人だけ。だが、その父も原爆投下から十六年後、がんでこの世を去った。
<私の願い>
原爆は国が起こした戦争の結果。これだけ国民を苦しめた国は自らの戦争責任をどう自覚しているのだろうか。無責任は絶対許されない。原爆を落とした米国の責任を追及すると同時に、国の責任をはっきりさせることが一番の課題だ。

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