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私の被爆ノート

退避せず逆に命拾い

1998年4月30日 掲載
福長 春二(69) 爆心地から約1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =長崎市秋月町=

当時私は十六歳。戦火が激しく、三菱工業青年学校を一年次で卒業し、長崎市大橋町の三菱長崎兵器製作所大橋工場に勤務した。岩川町の下宿に住んでいたが、原爆投下の約一週間前、空襲で焼けたため工場で寝泊まりするようになった。

工場には精密工場、機械工場などがあり、他県からの出身者も数多くいた。中でも、魚雷の仕上げをしていた宮崎県出身の里宏さんとは大の仲良しだった。彼は「魚雷の仕事もないし戦争は終わるのでは」と、当時では信じられないようなことを話していたが、今となっては印象深い。

「あの日」は前日からの徹夜仕事が終わらず、私の班の作業組長が「終わるまで残れ」というので屋内で作業していた。空襲警報が鳴っても逃げずに働いたが、これで逆に命拾いした。

「ピカッ」と光った瞬間に吹き飛ばされ、背中と足を鉄骨に挟まれた。何とか抜け出したが、工場の付近一帯に爆弾が落ちたのだと思った。

「逃げんばばい」というだれかの声で、煙の中を着のみ着のままで逃げた。「助けて」という声も聞いたが、逃げるのに精いっぱいだった。外で作業していた人は、ほとんど真っ黒に焼け焦げて死んでいた。途中、浦上川に顔を突っ込んだ無数の死体などの惨状を見た。「水を飲ませて」と路上の人がすがりついてきたが何もしてやれなかった。

東北郷(現・住吉地区)の住吉トンネル工場にたどり着き、多くのけが人の避難所となっていたため、そこで一夜を明かした。腹にぽっかり穴の開いた少女がトンネル内にはって入ってきた。「助けて」と一言だけ発して亡くなった無残な姿を、今でも忘れることができない。

翌朝、救援列車で東彼川棚町の実家に戻った。母親は私が死んだものと思っており、無事を喜び合った。帰宅して約一週間後、頭髪が抜け落ち「自分も死ぬのだ」と恐怖を覚えた。

満足に医療器具もない病院で約一カ月を過ごし、退院して工場を見に長崎に戻った。折れ曲がった鉄骨に、爆風のすさまじさを思い知った。里さんのいた付近の作業所の被害が最もひどかった。再建に向け後始末をしたが、だれなのかも判別できない黒焦げの死体を、まとめて荼毘(だび)に付した。

戦後、毎年の慰霊祭には欠かさず足を運んでいるが、彼の生死は今も分からない。
<私の願い>
修学旅行生にも語り部として伝えているが、若い人たちは絶対に戦争をしてはいけない。私から聞いた話を後世に語り継ぎ、原爆の恐ろしさを真剣に学んでほしい。いまなお続く臨界前核実験には、これからも断固反対していく。

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