当時十八歳。長崎市常盤町にあった県食糧営団の事務員だった。いつものように午前八時に出勤。空襲に備えて携帯袋に入れてあった台帳を取り出し、経理の仕事をこなしていた。
突然のせん光。視界のすべてが輪郭を失った。反射的に事務机の下に潜り込んでいた。「すさまじい爆音だった」というが、気が動転していた私には、なぜか音の記憶は一切ない。
事務所の理事長が「防空ごうへ逃げろ」と叫んだ。
何が起こったのか分からない。恐る恐る顔を上げると、事務所の窓ガラスはすべて割れ、事務所ごとひっくり返したようにメチャクチャ。先を争うように防空ごうへ。そのとき初めて、両手一杯ほどのガラスの破片が衣服にどっさり詰まっていたのに気付いた。
事務所の前の通りは、砂ぼこりだらけで「昼間に焼い弾はないはずだが」という声が聞こえた。その時点では、だれも新型爆弾とは思いもよらない。
昼すぎだろうか。防空ごうを出て見たのは、目を覆うような光景。勤め先に近い病院へ黒焦げの死体が運び込まれ、けが人の列が続いている。恐ろしい事態になったことを知った。浦上方面には火の手。そちらに住まいを構える職場の人は、青ざめて家路を急いだ。
愛宕町に帰宅したのは夕方。万一のことを考え、山手沿いを通って帰った。家族も家屋も無事。だが恐怖は去らない。若干の食料とござを持って防空ごうで一夜を明かした。その前の通りを一晩中、避難者が通り続けていた。
悲惨さが身に染みたのは、むしろ翌日だったかもしれない。定時に出勤したが、むろん仕事どころではない。焼け出された人のための炊き出しだ。そこへ、家を失った職場の人たちが、家族の遺骨を手にやって来た。「長男か二男かも分からん」と小さい骨を持ち込んだ人もいた。だれの目にも涙はない。私もなぜか泣けなかった。
家族を失った人が周囲にいても、激しい感情はわかなかったように思う。悲嘆に暮れることも涙も忘れ、混乱と自失の中にあった。当時の私はそんな状態だったのだろうか。
「日本は負けた」といううわさが即座に広まった。その時点ではデマだったのだが。「米軍が攻めて来る。山に逃げろ」と言われ、恐怖におののいたのを今も覚えている。
<私の願い>
戦後半世紀がたったのに、今も臨界前核実験が続いている。まだ核を完全放棄できないのかと思うと悔しい。原爆の悲惨さを分からない人が世界を動かしているからか。各国政府に被爆の本当の痛みを理解してほしい。