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私の被爆ノート

父らしい人骨あちこちに

1998年4月16日 掲載
荒木 正人(77) 荒木 正人さん(77) 爆心地から約2.8キロの長崎市役所で被爆 =西彼長与町岡郷=

当時、二十四歳。長崎市役所防衛部管理課で、市民を空襲から守る業務に従事していた。その日は朝から空襲警報。「またか」と思いつつ身支度を整え、市役所に急いだ。

一時間足らずで解除になり、通常業務に取り掛かろうとした矢先、伝令が来て二階の窓際に土のうを築く作業をすることになった。同僚たちと土を一階から二階に運ぶ作業の繰り返し。「あと一時間で昼飯」と思いながら、玄関近くの植え込みでかごに土を入れてもらっているとき、どこからか鈍い爆音が聞こえてきた。

西北上空を見上げると雲の間に、おなじみのB29が飛んでいた。「空襲警報は解除されたのに」と目を疑っていたところ、飛行機から突然、金魚のふんのようなものが落ち落下傘が開いた。一瞬、仕事柄聞かされていた「広島に落ちた新型爆弾」を思い出した。

一目散に玄関をくぐり、テーブルの下に潜り込んだ。「ピカッ」と光り、少し間をおいて「ズシン」と腹に響く音。続いて「ザラザラ、ガチャガチャ」と何かが滝のように落ちてきた。広島の新型爆弾は三発と聞いていたので、「残り二発か」とあせって自宅近くの寺町の防空ごうに急いだ。

周囲は土煙でどんよりと暗い。立ち寄った諏訪町の自宅はかわらが落ち、畳は吹き上がり、家の中はぐしゃぐしゃ。避難準備をしていた祖父、弟と一緒に逃げた。だが、私は足の痛みがひどくなり、弟に背負われる羽目に。

防空ごうにしばらく待機していたが、火災が広がっていると聞いたため、つえを手に必死で風頭を目指した。その日は運よく近所の人の知り合いの家で痛めた足を冷やしてもらい、食べ物にもありついた。長崎のまちは夜になっても燃え続けた。翌日、三菱電機長崎製作所の青写真工場で働いていた父が死んだらしい、と弟から聞いた。半信半疑だった。平戸小屋町にあった工場が、もっとも被害の大きい松山町に疎開していたことを知らなかったからだ。十一日、母に頼まれ私と弟の二人は父の遺骨を捜しに松山地区に向かった。行けども行けども焼け野原。弟が突然、「ここだ」と指さした。そこにはつふれた青写真の機械があり、数力所から人骨らしいものが見つかった。どれが父か分からず、あちこちに散らばった骨を少しずつつぼに入れて持ち帰った。骨は完全に焼け灰のように軽かった。
<私の願い>
戦争は正常な人の判断を狂わせ、原爆は後世にわたって影響を与える。核兵器廃絶と平和を求め草の根運動を続けているが、あの悲惨な出采事を二度と繰り返してはいけない。

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