長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

親孝行果たせず兄他界

1998年4月9日 掲載
大島 昌子(68) 爆心地から3キロの長崎市元船町で被爆 =西彼大瀬戸町瀬戸板浦郷=

当時、鶴鳴高等女学校四年生(十五歳)だった。学徒動員で西彼香焼町の川南造船所に通っていたが、あの日はちょうど体調を崩していたため、六歳上の兄が通っていた長崎医科大学に行くことにしていた。

朝から空襲警報が発令されていたので、兄は「解除になってから来いよ」と言って五島町の自宅を出た。解除になったとき、すぐに病院に行こうと思ったが、西彼大瀬戸町の実家に帰るための船の切符を買うのが先決じゃないかと考え、まず大波止の船着き場へ急いだ。切符売り場は屋内で、順番を取ってから外へ出た瞬間だった…。

私の目に映った光景を表現すると、油に水を落とした時にできる水玉が、空から降ってきたようだった。爆音とか光とかは分からなかった。すぐに道端にあった防空ごうに飛び込んだが、外は薄暗く、砂ぼこりがもうもうと舞っていた。最初は、近くに爆弾が落ちたのだろうと思っていた。

自宅はすぐ近くだったので、帰ろうと思えば帰られたのかもしれないが、体が動かなかった。知り合いのおじさんが私を捜しているのが見えているのに出ていけなかった。防空ごうの中にいた人たちは、しばらくの間、だれも動こうとはしなかった。

右のほおから耳のあたりがピリピリすると感じていたら、水膨れになっていた。状況が分かってきたとき、ほかの人たちに比べたら水膨れぐらい何でもないことだと思った。

私はその日のうちに自宅に戻ったが、兄は翌朝帰ってきた。大学からどんなふうにして出てきたのか分からないと言っていたが、諏訪神社の防空ごうの中で一夜を過ごしていたらしい。

兄も大きなけがはしておらず「元気でよかったな」と思っていたが、一カ月後、大瀬戸町の実家で死んでしまった。死ぬ一週間前から高熱にうなされて寝込んでしまい、二度と立ち上がることはなかった。

「親孝行をしようと思って医者の道を選んだのに…」。そう何度もつぶやきながら息を引きとった。かわいそうで見ていられなかった。このときほど、原爆の恐ろしさは受けた者にしか分からないと痛感したことはなかった。

兄は死ぬ間際、苦しくてたまらないはずなのに、私に対して「おまえは養生せろよ」と言い続けてくれた。この言葉が今も胸の奥に刻み込まれている。
<私の願い>
今でも続いている核実験に対しては絶対反対と叫びたい。子供たちの未来のためにも本当にやめてもらいたい。平和の大切さは私たち被爆者が一番分かっているかもしれない。今の平和を永遠に守ってもらいたい。

ページ上部へ