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私の被爆ノート

消えるように死んだ友

1998年4月3日 掲載
内田 保信(69) 爆心地から1.4キロの長崎市家野町で被爆 =長崎市西小島2丁目=

当時私は十六歳の中学生。学徒動員で三菱長崎造船所の第三機械工場に配属され、戸町トンネル工場で働いていた。

九日は工場が休みだったので、同市家野町にある友達の家に行くことに決めた。道すがら同市松山町の電停付近で空襲警報が発令されたが、いつものことだと思い、防空ごうに避難せず友達の家に向かった。友達と二人で通勤用のげた作りに専念していたとき、運命の一瞬が訪れた。

突然、金づちで頭を殴られたような衝撃が走った。辺り一面は黄色っぽくなった。ふわっと浮き上がったような感じで体が爆風で吹き飛ばされ、気絶してしまったと思う。目を覚ますと、のどがカラカラに渇き、頭に熱いタオルを巻かれたような不快感を感じた。

「助けてくれー」といううめき声が崩れ落ちた屋根の下から聞こえてくる。「中村だ!」。友達に声を掛け、必死に救い出そうとしたが、一人の力ではどうにもできない。通り掛かる人たちに協力を求めたが、ただ放心したように通り過ぎるだけだった。

言いようのない悲しさに涙がこみあげてきた。それでも一人でかわらを一枚ずつはがしていると、家の裏手から友達の母親がはい出してきた。その後、二人の男性が力を貸してくれたおかげで、友達をなんとか引っ張りだすことができた。

友達と二人で防空こうで寝かされていたら、友達の父親がタンカで運ばれてきた。「水を飲ませろ」と元気な声だったが、容体が急変し「梅干しが食べたい」と言ったまま亡くなった。その日の夜中、友達も「かあちゃん」と泣きながら、消えるように死んでしまった。

私は友達の母の配慮で、救護所がある諫早市まで列車で運んでもらった。救護所では高熱と脱毛、下痢で苦しみながら死んでいく被爆者を目の当たりにした。私自身もやけどを負った左腕に食いつくうじ虫に悩まされた。熱も高くリンゲル(食塩注射)を打ち続けた。

救護所の小学校から諫早海軍病院に移されたが、すぐに米軍に接収され、強制的に退院させられた。私の病室には五十人の患者がいたが、生き残ったのは、たった七人だった。

私は左腕に残ったケロイドを見るたび、火に追われ水を求めて幽霊のようにさまよい歩く地獄絵を思い出す。
<私の願い>
日本に原爆を落とした米国の政治家や軍人を私たち被爆者は許すことはできない。核兵器を造り、使おうとするのは、人間がやるべき行為でない。核廃絶を実現するために、語り部をはじめ、さまざまな平和運動に今後も取り組んでいきたい。

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