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私の被爆ノート

医大病院で激しい衝撃

1998年3月13日 掲載
坂本 貞男(70) 爆心地から0.7キロの坂本町の長崎医科大病院で被爆 =南高吾妻町阿母名=

当時、十七歳。長崎師範学校本科一年生で、学校近くの寄宿舎で生活しながら、住吉のトンネル工場に学徒動員されていた。あの日は、二、三日前から具合が悪かったため、休暇をもらい、友達二人と長崎医大付属病院に行っていた。

二階の部屋で診察を受け、服を着ていた時、「バーン」という音とともに窓ガラスが割れ、体に激しい衝撃を感じた。光は見えなかった。「直撃弾か…」。辺り一面はほこりが舞い、真っ暗。一瞬、死んだと思った。

しばらくするとぼんやりと明るくなり、窓の外に木々の緑が見えた。急いで窓から飛び降りた。下の庭には、外壁の擬装工事をしていた作業員たちが即死の状態で転がっていた。白衣が血に染まった看護婦や血だらけの人たちとアリのように一列になり、金比羅山へと逃げた。

途中、市街地の方を振り返ると、焼け野原となっていた。「今までの爆弾とは違う」。道沿いに家が一軒あり、家の前で三歳ぐらいの男の子が体をパンパンに張らし、丸裸で死んでいた。急に、腰に痛みを感じ、手で触るとべっとりと血が付き、顔からも血を流していた。けがをしていることに初めて気づき、そこの庭に干してあったおしめを傷口に巻いた。その場で、病院へ行っていた友達二人と偶然、再会し、一緒に山道を上った。

山頂で治療をしてもらい、一時間ぐらい休んで寄宿舎へと向かった。一帯の建物は外枠のコンクリートだけを残して焼け落ち、擦れ違う人々のほとんどが、けがをしていた。聖フランシスコ病院辺りで寄宿舎が燃えているのが見え、道を急いだが、着いた時には灰になっていた。

夜は学校裏の竹やぶで過ごした。地区の人ににぎり飯をもらったが、具合が悪くて食べきれなかった。横に寝ていた男性はのどに大きな傷を負い、血を流していた。「水、水…」と叫んでいたが、自分の体が動かず、与えることができなかった。この男性は夜中に亡くなった。

寒さと恐怖で一睡もできないまま、翌朝、道の尾駅まで歩き、汽車で長与へ。小学校で治療を受けた後、汽車を乗り継ぎ、吾妻の家に帰った。母親は泣き崩れながら手を握り締めてくれた。安心感と空腹で力が抜け、がっくりした状態で体をふいたことを覚えている。おかゆを食べ、寝床に就いたが、傷が痛みほとんど眠れなかった。そんな日が数日、続いた。

原爆では姉夫婦とその二男が犠牲となった。一カ月近く病院に通い、十月ごろ復学。十年間ほど貧血などに悩まされたが、今は元気に生活している。
<私の願い>
物心ついた時から、私たちは画一的な思想の教育を受けた。そして、戦争がいかに悲惨な結果を生むものか、教えられた。この平和な生活の中で、これまでの教訓を無にすることなく、一日を大切に生きたいと思う。

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