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私の被爆ノート

防空ごうも血のにおい

1998年3月7日 掲載
浜田多美子(75) 爆心地から3.1キロの外浦町(現・江戸町)で被爆 =長崎市田上4丁目=

当時、二十二歳。長崎市外浦町の長崎署の会計課で給与計算などの経理業務に従事していた。

「あの日」は朝から空襲警報が鳴り響き、米国の爆撃機が「ブーン、ブーン」と、市内上空を不気味な音を発しながら旋回していた。午前十時ごろ、警報が解除。「ホッ」とした空気が流れ、署員は落ち着きを取り戻した。

同十一時すぎ、突然、「ピカッ、ドーン」という爆音とともに、白いせん光が走り、地響きが起こった。爆風で窓ガラスが粉々に砕けた。常備していた防空ずきんをかぶり、机の下に身を伏せた。飛散した破片でほおや手に切り傷を負った。

しばらくして外に出ると、上空はオレンジ色の火の玉と灰色の雲に覆われていた。爆弾の熱線で隣接する県庁などの建物は燃えていた。新興善国民学校を結ぶ国道筋はひときわ高く火の帯となって燃え盛っていた。

無我夢中で県庁下の防空ごうに駆け込んだ。既に中は人でいっぱい。生臭い血のにおいが広がっており、吐き気がした。一緒に避難した署員は「浦上方面に爆弾が落ちたらしい」と話していた。大井手町の下宿先の知人の安否が心配になったので夕暮れ時を待って戻った。知人は無事だった。部屋はガラスの破片が散乱、たんすや茶棚が倒れていた。

四日後、長与村岡郷(現・西彼長与町岡郷)に疎開していた両親の元へ向かった。途中、長崎駅周辺は一面がれきの山、家屋は全壊、至る所で炎がくすぶっていた。

最も被災がひどかった浦上駅一帯は、まるで地獄絵図。馬や黒焦げの死体ばかり。道端にあおむけに倒れていたり、腕や足がもげていたり、体がパンパンに膨れ上がっていた。男女の判別ができないほどだった。想像を絶する光景にぼうぜんと立ち尽くしていた。

「水が欲しか、水をくれ」という悲痛な叫び声が至る所から聞こえてきたが、飲ませる水もなく助けることができなかった。悲しさで涙がとめどなく流れた。

半日かけて両親の元にたどり着いた。「生きとったね。連絡がつかんけん多美子は死んだとあきらめとった」と、両親は私を見るなり喜びのあまり泣き崩れた。

被爆直後から腎臓(じんぞう)を患い、血尿に悩まされ、現在も病院通いは続いている。私の戦後はまだ終わっていない。
<私の願い>
戦後世代は幸せ。戦時中は不安で一時も気の休まる時がなかった。戦争は無益でいいことは何もない。次世代を担う若者には平和の意義をかみしめてほしい。

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