井手 操
井手 操(66)
爆心地から約2キロの西彼長与町道の尾駅で被爆 =西彼時津町左底郷=

私の被爆ノート

腰掛けたままの死体

1998年2月19日 掲載
井手 操
井手 操(66) 爆心地から約2キロの西彼長与町道の尾駅で被爆 =西彼時津町左底郷=

空襲が頻繁になってきた一九四四(昭和十九)年、時津国民学校高等科二年生だった私は、学童報国隊として長与の三菱兵器堂崎工場に勤務していた。長崎の工場で出来上がった魚雷を試験して戦地へ送り、不良品は整備し直すという仕事だった。「お国のため」と、戦争に何の疑問も持たなかった。

あの日、私は道の尾駅にいた。三月に国民学校を卒業。時津の長崎航機有限会社に勤め、会社に送られて来る小荷物を受け取るためだった。

午前十時ごろに到着するはずの汽車が、どういうわけか遅れていて、いらいらしながら待っていた。突然、目のくらむような光がして、ものすごい爆音と爆風が襲ってきた。爆弾が落ちたと直感し、思わず伏せた。われに返って体を調べてみたが幸いけがはなく、一目散に時津の会社へと走って帰った。

会社もスレートの屋根がはがれるなど被害が出ていた。工場は閉鎖され、全員帰宅することになった。私は家には帰らず、長崎の方へと向かった。三菱幸町工場で働く一つ年上の親友(当時十五歳)が案じられたからだ。

しかし、六地蔵あたりまで来ると、そこにはおぞましい光景が広がっていた。道はがれきや人、馬の死がいで埋まり、先に進めない状態。唯一、歩けそうな線路は作業服姿の工員たちがぞろぞろと何百人も避難して来る。「ガスが充満している。住吉から先には行けない」と制止された。

長崎の方角は真っ黒な煙に覆われ、晴れた日だったのに空一面が曇っていた。六地蔵の方にふと目を向けると、腰掛けたままの老人の死体があった。

親友が死んだと知ったのはそれから二、三日してからだった。幸町工場でがれきの下敷きになって死んでいるのを家族が見つけた。家が近くで、幼いころから兄弟同様に仲良く遊んだことが思い出され、葬式の時は悲しくて泣いた。近所の人が「日本が作った図面をアメリカが盗んで造った原爆だ」と話していた。

被災者の救護所となった時津国民学校には約二百人が収容されていた。看護に駆り出されていた姉に用事があって中に入ると、そこにはうめき声が充満。飲んだ水が砕けたあごから漏れる人、焼けただれた体にウジのわいた人。惨状を目の当たりにして夕食がのどを通らなかった。
<私の願い>
農家だったので、戦後、町から買い出しに来る人たちに食糧を分けてやっていた。戦争は悲惨なものだ。そういう時代に生きてきたから平和のありがたさが分かる。この平和がいつまでも続くようにと願っている。

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