公門 敬
公門 敬(64)
爆心地から約2キロの八千代町の電車の中で被爆 =長崎市小ケ倉町2丁目=

私の被爆ノート

試験の帰り 街並み一変

1998年2月14日 掲載
公門 敬
公門 敬(64) 爆心地から約2キロの八千代町の電車の中で被爆 =長崎市小ケ倉町2丁目=

当時十二歳、旧制瓊浦中学校の一年生だった。その日は空襲などで延び延びになっていた英語と数学の試験日。自分で言うのも何だが成績はかなり優秀な方だった。朝、自宅を出ていつものように戸町まで歩いた。そこから市営交通船に乗り大波止へ。さらに電車に乗り換え浦上で下車。そこから学校まで歩いた。

試験は昼前に終わり、持ってきた弁当を食べて帰ろうか、食べずに帰ろうか、迷った。結局「食べずに帰ろう」と、友人二人と一緒に電停に向かった。一斉に試験が終わったため電車の中は下校途中の学生で混雑してなかなか乗れない。仕方なく一つ手前の電停まで歩き、一人で電車に飛び乗った。

八千代町付近にさしかかった時、突然「ピカッ」と光った。当時、電気系統のトラブルで電車はよく止まっていた。「また故障か」と思った瞬間、車内が明るくなり、辺り一面黄色やら白やら分からぬ光でいっぱいになった。「危ない」と思い、とっさに耳と目を押さえて体を伏せた。

気がつくと、運転手の指示に従い近くの防空ごうに向かって歩いていた。電車の窓は全部割れ、通学時にいつも見ていた周辺の街並みは消えていた。爆弾が落ちたことは容易に想像できた。熱風で電車の後ろの方にいた乗客がやけどしていたみたいだが、私にけがはない。今考えると爆心地から一番離れた運転席のすぐ後ろにいたことがよかったのかもしれない。

「窒息死するぞ」。防空ごうの中に燃える民家からの煙が入ってきた。西坂の丘に逃げ長崎駅周辺を見下ろすと、機関車は燃え、空には黒くて不気味なきのこ雲が広がっている。とにかく家路を急いだ。山道や真っ暗なトンネルを通り、自宅が見えるところまで何とかたどり着くと、玄関に病気で療養中の父がいて「敬が帰ってきたぞ」と大声で叫びながら喜んだ。私が死んだと思っていたらしく、あのときほど父の愛を惑じたことはなかった。

その後、父は「あの爆弾には毒がある、学校を休め」と言い、私に注射器と解毒剤をくれた。おかげでこれまで体に異常はなかったが、十年ほど前から耳鳴りがして止まらない。後遺症だろうか。
<私の願い>
戦後世代は平和の大切さがなかなか理解できないだろう。戦争と核兵器はすべての人の自由を奪ってしまう。世界の人々がまず原爆資料館などを訪ねて歩き、自国に怖さを伝えることから平和は始まるのでは。

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