長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

お骨がわりに端切れ拾う

1998年2月5日 掲載
反 安子(72) 2週間後に入市被爆 =長崎市滑石3丁目=

原子爆弾が長崎に投下されたときは韓国南部の港町、木浦にいた。天皇陛下の玉音放送をラジオで聞いた。悔しさはなく、ただ戦争が終わったという感じだった。

父母が営む陸海軍指定旅館で働いていた。母親から 「もうこっちにはおれん。内地に帰った方がよか」と言われ、父親や従業員十人とともに韓国を引き揚げた。十七日、陸軍の兵站(へいたん)船団に乗り込んだ。潜水艦攻撃を恐れて昼間の航行を避け、山口まで五日間もかかった。

外地からの引き揚げ者の第一陣だった。長崎駅には二十三日昼前に着いた。どこを見てもがれきが散乱する原っぱ。原爆投下前の町の様子とは全く違っていた。重い荷物を駅の係員に預け、叔父家族が住む城山町一丁目(現在の城山町付近)を目指した。偶然、母方の親類が運転するトラックに出合い、乗せてもらった。

わたしは十九歳で妊娠八力月。トラックは道なき道を黙々と進んだ。道端や大橋近くの浦上川には黒焦げの人間や馬が転がっていた。がれきを歩く人影や動物は全くなく、くすぶっている焼け跡もあった。腐ったにおいがものすごかった。医学部の付属病院が見えたような気がする。地上には悲惨な光景が続くのに、皮肉にも空は真っ青、かんかん照りだった。

城山は住宅街だったが、ここもがれきの原っぱになっていた。叔父が営んでいた銭湯と自宅は城山国民学校のがけ下にあった。叔父夫婦と子ども三人が住んでいた。一番上の子どもは小学校六年生で、城山に遊びに行くと、よくかわいがっていた。

家屋が倒壊していた中、鉄製のボイラーだけが残っていた。強烈な爆風でセメントの基礎部分が一メートルほども地中にめり込んでいた。一家は恐らく、爆死したのだろう。着物の切れ端をお骨がわりに拾い集めた。貴重品をしまっていた物置小屋の焼け跡には何一つ残っていなかった。十月まで、母親の実家がある川原(現在の西彼三和町川原)と城山を行き来する毎日が続いた。

二十五、二十六日ごろに大雨が降り、駅の広場に預けていた荷物は水浸し。アワビやサザエの乾物はすべて台無しになった。

長崎市の思案橋一帯にはやみ市があった。通り掛かると、城山の物置小屋にしまっていたはずのわたしの着物が売りに出ていた。韓国・木浦にあった財産はすべて人手に渡った。その後一度も訪ねていない。本当に悲しかった。
<私の願い>
今は平和。金さえあれば何でも手に入る時代。戦争は絶対に繰り返してはいけない。あのような苦労は私たちの世代で終わらせなければならない。

ページ上部へ