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私の被爆ノート

母も姉も全身黒焦げ

1998年1月29日 掲載
下平 作江(63) 爆心地から約800メートルの防空ごうで被爆 =長崎市油木町=

当時十歳。城山国民学校の五年生だった。父母、きょうだい三人と駒場町(現在の松山町付近)で暮らしていた。

「あの日」は朝早くから空襲警報がなり、おいの魂 (たましい)=当時1歳=を背負い、妹の遼子=当時8歳=と一緒に油木谷の防空ごうに逃げた。中にはたくさんの人がいたが、間もなく警報が解除になり、ほとんどの人が帰って行った。私たちはなぜか中に残ったのだが、それが運命の分かれ目だった。

「ピカッ」

何か光ったのだけ覚えている。私は強い風に吹き飛ばされ、気絶したらしい。

気が付くと、防空ごうの様子は一変していた。眼球が飛び出た人がいた。はらわたがはみ出した人、皮膚が焼けただれ体が膨らんだ人…。「助けて」「水をくれ」と言い続け、次々に息絶えていった。やがてごう内は、死臭がひどくなった。

妹もおいも吹き飛ばされ、気を失っていたが、やがて気付いた。二人とも無事だった。「どうして母も姉も助けに来ないのか」と恨めしく思い、妹と一緒にガタガタ震えるばかり。夜遅く、諫早市で働いていた父がようやく助けに来た。みんなうれしくて抱き合って泣いた。外に出ると、家は一軒もなく、建物の残がいがすごい勢いで燃え、真昼のように明るかった。

翌朝のことだろうか。遠くから、だれかに支えられよろよろとやって来る人が見えた。長崎医大医学専門部に通っていた兄だ。「お兄ちゃん!」と叫びながら走った。兄は息絶え絶え。ただ気力でここまで来たのだろう。私たちを見ると、がっくりひざをつき倒れた。それから三日後、黄色い汚物をいっぱい吐いて死んだ。

父や助けに来てくれた親せきと、母や姉を捜した。姉は自宅のがれきの下から、全身黒焦げの姿で見つかった。ただ、手のひらで覆っていた顔だけは焦げておらず、姉と分かった。母らしき遺体は、自宅から五十メートルほど離れた所で見つかった。それも黒焦げ。ただ金歯があるのを手掛かりに、母と信じた。

やがて秋になると、髪の毛が抜け落ち、突然鼻血が出るなど、体に変調が出始めた。疎開先から逃げるように駒場町に戻り、近所の人と一緒にバラックを建て、ひっそりと暮らした。苦楽を共にした妹は十年後、盲腸になって手術した傷が治らず、傷口から臭い汁がどんどん出てきた。それを苦にしたのだろう。列車に飛び込んで自殺した。
<私の願い>
こんな悲惨な体験は早く忘れたい。今でも夜中に夢を見て、大声を上げ飛び起きることがある。しかし私たちが語ることで、戦争がなくなってほしい。平和になってほしい。核兵器を廃絶してほしい。そして子供たちが、人の痛みを分かる心を持ってほしいと願っている。

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