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私の被爆ノート

胸痛んだ姉妹と母親の死

1998年1月22日 掲載
戸川 スエ(91) 爆心地から約5キロの出雲2丁目の自宅で被爆 =長崎市出雲2丁目=

九日朝、警報が鳴り、南大浦小学校近くの防空ごうに子供たち四人を連れて駆け込んだ。長女は大波止付近の船会社に出勤。大工をしていた夫は、数日前から泊まり込みで蛍茶屋方面で疎開家を造っていた。

しばらくすると警報が解除。地元の消防団員から干していた洗濯物を取り込むように言われ、生まれたばかりの三カ月の赤ん坊を抱えて自宅に戻った。

自宅で赤ん坊を畳の上に寝かせた後、昼食の準備をした。ほかの子供たちは、どこにいたのかはっきりと覚えていない。青空の下、おむつなど洗濯物を取り込んでいた。

その瞬間、浦上方面の空が赤くなったと同時に、顔がカツと熱くなり、やけどしたと思った。その後、真っ暗になり、晴れていた青空はどこにもない。突然爆風が襲った。

赤ん坊のことが心配で急いで戻ると、部屋はめちゃくちゃになっていた。隅にあった茶棚やたんすが部屋の真ん中まで動いている。格子戸も倒れ、ガラスの破片は部屋中に散乱。寝ていた赤ん坊の頭にはガラスの破片が飛び散り、血が流れていた。慌てて剌さっているガラスを一つ一つ取り除いた。

赤ん坊を背中に負ぶって、泣く子供たちの手を引きながら、さっきまで避難していた防空ごうに必死で逃げ込んだ。小さな子供たちとともに、不安と恐怖に襲われながら何が何だか分からないまま。

赤ん坊のけがも大したことなく、みんな無事だったことが唯一救いだった。

防空ごうの中で、浦上方面から逃げてきた十二、三歳ぐらいの姉妹が「お母さんのところに行く」と泣き叫ぶのを見ながら、親を亡くした子供たちがどのように生きていくのだろうかという気持ちでいっぱいだった。親せきらしき人が納得させるために、姉妹を母親の亡くなった長崎市街地の防空ごうまで連れていった。その後、その姉妹も亡くなったと聞き、胸が裂けそうだった。

母親の死を受け入れられない姉妹の姿を見て、子供たちのために自分が生きて頑張らなければと必死だった。長女と夫が無事に帰ってきたときは、ほっと安心した。夫も家族の無事を喜んでいた。
<私の願い>
原爆は恐ろしい。あの日の嫌な思い出を早く忘れたい。あの悲劇で失った楽しい時間を今の生活で埋めようと、毎日を有意義に過ごしている。今の子供たちにはこの平和がずっと続くよう、戦争のない世の中をつくってほしい。

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