長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

唸り声で「水、水…」

1998年1月15日 掲載
中村 栄重(88) 爆心地から4.8キロの西彼長与町で被爆 =南高南有馬町大江名=

当時、三十六歳だった私は、門司鉄道局長崎管理部旅客係で“疎開”のため出島町から西彼長与町吉無田郷の長与駅前に移転したばかりの仮庁舎に勤務していた。

突然、目のくらむような強烈な閃光(せんこう)に襲われ、とっさに机の下に身を隠した。その直後、ドーンという爆音が鳴り響き、窓ガラスが砕け散った。ガラスの破片で血だらけになった同僚も多かったが、幸い私にけがはなかった。その時は何が起きたのか見当もつかなかった。

やがて上司から「長崎は全滅状態らしい。負傷しなかった者は救援に」という通達が出され、長与駅に停車していた六、七両編成の列車で同僚五人とともに長崎に向かった。

ところが、浦上川の鉄橋の安全が確認できず、列車は手前で立ち往生。仕方なく、歩いていると鉄橋を渡った辺りから多くの死体が転がり、浦上駅に近づくと周りには原形をとどめた建物はひとつもなく、がれきの丘。人も動物も動いている姿は見当たらない。想像を絶する光景だった。

長崎駅近くでひん死の女性を担架で運ぶが、炎天下に加え空腹感と焼け跡から立ち込める煙で足元もおぼつかない。必死の思いで列車まで戻ると、汽笛の音を聞きつけ、救助を求めに集まった何百人もの人が転がっている。

水膨れが破れて赤い肉肌を炎天にさらしている人、焼けただれ性別さえ見分けのつかない人。よく見ると、半数は息絶えていた。何とか助かりたいという本能がここまで足を運ばせたと思うと言葉もなかった。

唸(うな)り声で水を求めながら次々と息を引き取っていく人も多かった。列車に自力で乗れる人は一人もいない。駅のホームでないためなおさらだ。下から抱き上げ、上から引き上げるが水膨れが破れずるっとすべった時には、自分の息が詰まりそうだった。

列車は海軍病院のあった諫早、大村、川棚に向かったが、皆横倒しですぐ満員になる。生きている人を捜し出しては搬送する作業が深夜まで続き、明け方にかけては親せきの安否を気遣い長崎市内の状況を聞く人の対応に追われた。

翌日から終戦までは、跡形もない浦上駅の復興に取り組んだが、周辺は人や馬車馬の死体などが散乱。異臭が漂いハエがたかっていた。まるで地獄絵のような悲惨な状況は今も鮮明によみがえる。

五年後、私は病魔にむしばまれ退職。その後も病との闘いだった。極端な食糧不足の中での過酷な戦時輸送、そして原爆。すべては戦争がもたらした悲劇であることを忘れない。
<私の願い>
日本は唯一の被爆国として核廃絶を叫び続けることは至極当然であるが、実現は容易ではない。ただ、戦争がなければ核が使われることはない。わが国は平和憲法を徹底的に守り、戦争の火種となるような国際問題は外交手段によって解決すべきだ。悲惨な戦争は二度とあってはならない。

ページ上部へ