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私の被爆ノート

無事を泣いて喜んだ父

1998年1月8日 掲載
織方誠吉郎(67) 爆心地から約2.5キロの平戸小屋町の自宅で被爆 =長崎市つつじが丘4丁目=

当時十四歳。旧制瓊浦中学校の二年生だった。私は学徒動員で三菱長崎製鋼所で、部品類の運搬作業に毎日従事していた。七月ごろから激しくなった空襲で、工場も大きな被害を受けていた。

九日朝、家族との朝食を終え、三菱長崎造船所に勤める父親と一緒に家を出た。途中、それぞれの職場に行くため二人は分かれ、父は南へ、私は北へと向かった。自宅から歩いて約三十分の道のり。確か警戒警報が発令されていたようだったが、よく覚えていない。

工場に着いてしばらくして空襲警報が発令されたため、防空ごうに避難した。その後、八月一日の爆撃で工場のあちこちが爆破され、生産機能がほとんどストッブしていたためか、私は自宅に戻っていた。「防空ごうか自宅に避難しろ」との命令が出ていたのかもしれないが定かでない。これが私の運命の分かれ目だった。

午前十一時ごろ、父親を除き家族みんなは自宅にいた。私は九歳の弟と二人で庭の防空ごうで破損個所の修理、片付けなどをしていた時、光と激しい音がした。そして一瞬の静寂。近くに爆弾が落ちたと思った。自宅の上にある朝日国民学校の宿直室から防空ごう付近にたんすやげた箱などが落下したほか、自宅は半壊状態。見上げると真上に天高く真っ黒い煙、いわゆる原子雲が広がっていた。

庭で遊んでいたはずの五、七歳の弟二人が頭を手で覆って防空ごうに走り込んできた。かわらが頭に当たり血を流していたので、救急薬品で手当てをしてあげた。家の中では、母親がガラスの破片が胸に突き刺さり血を流していた。家族みんなけがはあったが何とか無事だった。

ホッとするもつかの間、同校の宿直室の屋根から火が出ていると知らされた。ほっておくと自宅への延焼は必至だったため、学校にあった手押しの簡易ポンプを持ち出した。片手でポンプを押し、もう一つの手でホースの筒先を持ち燃えている建物に向け水をかけた。とにかく無我夢中だった。運よく火は消えていた。

父が夜遅く帰ってきた。昼間に人命救助のため私の働く工場近くまで行っていた父は、私が壊滅した製鋼所で死んでいたと思っていたのか、泣いて喜んだ。
<私の願い>
平和と核兵器廃絶を願うのは人として当然。この願いのためにわれわれは何かをしなければいけない。私は原爆の惨状を次世代に伝えるため、被爆惨状写真の整理収集に取り組んでいる。

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