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私の被爆ノート

原爆投下の瞬間見た

1997年12月26日 掲載
黒崎 勝也(65) 爆心地から約4キロの東陵中付近で被爆 =大村市池田1丁目=

長崎市の南山手にあった(旧制)東陵中学の一年生だった。深堀の実家から大波止まで連絡船で渡り、学校まで徒歩で通う毎日。いつも通り登校したその日、着くとすぐに警戒警報、さらに空襲警報が鳴り響いた。やがて解除されたが、警報が発令されると授業は中止。船便がないため帰れず、校門近くの防空壕(ごう)を掘る作業を始めた。

残った同級生ら数人と、そうして時間をつぶしていた矢先、遠くに飛行機の爆音。「どこやろう」。見上げると浦上上空に機体が見える。すぐに落下傘のような白いものが落とされたのをこの目で見た。

「落ちたぞ」。そう言った瞬間、視界はせん光で真っ白に。反射的に後ろを向いた。次に頭の上に何か落ちたような「ドーン」という爆音と熱風。瞬時に五メートルは飛んだ。何も考える間はなかった。

次に訪れたのは静寂。私たちの近くには幸いにも大木があって、大けがを免れたようだ。すぐに学校裏の防空壕に向かった。中には学校の先生や事務員らもいて「あれは広島に落ちた新型爆弾じゃないか」と話していたのを覚えている。

「とにかく帰らなくては」。防空壕から出ると、すり鉢状になっている浦上方面は煙で真っ白。原子雲がその上空に見えた。浦上に住んでいた友人が「おれの家、やられた」とつぶやき、家へ駆け出した。

大波止の船着き場まで向かう途中、皮膚がただれ、肉が露出した人たちが病院に次々と運ばれていた。「なぜ爆弾でこんなことに…」。私は比較的、遠隔地にいたから分からなかったが、今思えば、それが原爆の熱風の威力だった。

船は来るはずもない。とぼとぼ歩きながら県庁を見上げると窓などから煙がくすぶっていた。県庁職員は帰宅したのだろう、周辺はだれ一人いない。やがて憲兵らがやって来て、県庁の火を消すよう命じられた。庁舎は既に業火に包まれていた。川の水を灯油缶でくみ上げたが、まさに焼け石に水。次の命令で、庁舎一階の荷物を抱え出した。必死だった。

まだ子供だった私が、大人に交じって火災と格闘した。無我夢中で、使命感だけに支えられていた気がする。焼けた県庁を後に、夕方になってようやく家路に就き、無事を喜び合った。

学校は秋まで休校で、ずっと家にいた。あの恐怖は子供心に焼き付き、ずっとよみがえり続けていた。(大村)
<私の願い>
核というものは本当に必要なのだろうか。国を守るための戦争とはいえ、一般市民を巻き添えにし、無残に殺傷する核兵器は一国を滅ぼす絶対悪としか考えられない。「力での抑制」がなくなる日がくるのを願う。

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