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私の被爆ノート

妹弟 追うように両親も

1997年12月24日 掲載
森田 忠光(65) 爆心地から0.7キロの坂本町の防空壕で被爆 =長崎市三原町=

当時十三歳、鎮西中学校一年生。報国隊として国鉄で石炭を運ぶ仕事をしたり、軍の指揮で穴を掘ったりの日々だった。

あの日は具合が悪くて、初めて学校を休んだ。空襲警報が鳴ったので、自宅(岩川町)から約百メートル離れた防空壕(ごう)にいた。

閃光(せんこう)が走り、爆風で壕の奥に四、五メートル吹き飛ばされた。直撃弾が落ちたと思い、目と耳を押さえたが、しばらくたっても何も起こらない。壕の中には五、六人の幼い子供や同年代の女の子二人がいたが、私が最初に外に出た。

呆然(ぼうぜん)となった。木々は裸になり、黒い煙が上がっている。自宅は倒壊してしまったらしく、母は家のはりが頭に当たり大量の血を流していた。父と一緒に、妹の玲子(11)と三人の弟=杲(9つ=果修(6つ)、勝昭(4つ)=を捜した。

弟たちが遊んでいたと思われる近くの池には、髪の毛が燃え、体の皮がむけ、男か女かも分からない状態になった複数の子供たちがいた。

修は池のそばで見つけた。勝昭は父が「池の反対側に飛ばされていた」と言って連れてきた。二人とも歩くことはできなかった。結局、玲子と杲は見つからなかった。父が母を背負って、修を抱いた。私は勝昭を抱き、近くの納骨堂に避難した。勝昭はその途中、私の腕の中で死んだ。死を悲しむ余裕はなく、涙は出なかった。

納骨堂のわきの道には、たくさんの人が逃げてきて、水を求めた。私は何度か近くの井戸に水をくみに行って渡した。その後、私は山を越え、長崎市高平町の叔父の家へ連絡に行った。夕方五時ごろ、叔父と叔母を連れて戻ると、修も息絶え、先ほどまで近所の人を助けるなど元気そうに見えた父も弱っていた。

叔父は母の実家、茂木町(現在の早坂町)に救助を求めに行き、翌朝、親せきら五人を連れて来た。母や亡くなった弟たちを担架に乗せ、山を越えた。

母はその月の二十九日、三十五歳で死亡。頭に傷が少しあった程度で、一時は持ち直したかに見えた父も後を追うように、九月二日に亡くなった。四十一歳だった。家族で残されたのは志願兵だった兄と私だけだった。

両親を亡くした私は、十六歳で洋服の仕立屋の仕事に就き、懸命に働いた。しばらくは口元がただれ二、三年は胃が痛んだ。

あの日の翌朝、納骨堂近くの道路(現在の坂本国際墓地横)には、そこで息絶えたと思われる死体がたくさんあった。その光景が目に焼きついて、十八年間その道を通ることができなかった。

<私の願い>
両親を亡くした私の苦労は人一倍だったと思う。原爆は戦争を早く終わらせるため、やむを得なかったと考えている若者が多いという最近の新聞報道を見ると、悲しくなる。これまで、被爆体験は子供にさえ詳しく話したことはなかった。二度とこんな惨状を起こしてはいけない、戦争してはならない、核兵器をなくしてほしい杲との思いで語った。

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