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私の被爆ノート

下痢止まらず死も覚悟

1997年12月18日 掲載
山滝 房松(72) 爆心地から2.5キロの長崎市平戸小屋町の工場で被爆 =西彼大瀬戸町多以良内郷=

当時、私は十九歳。長崎市平戸小屋町の三菱電機工場で、魚雷艇のモーター部分を作っていた。

作業中、モーターの図面を開いていたら、白い閃光(せんこう)が走った。「ピカッ、ドーン」。一瞬、何が何だか分からなかったが、腹ばいになった。すぐに爆風と砂煙が襲ってきた。少し落ち着いてからふらふらと立ち上がると、一緒に作業をしていた約四十人の工員たちも、私と同じようにぼう然と立ちすくんでいた。

幸い大きな負傷もなく、比較的冷静だった私は「防空ごうへ行こう」とみんなを誘い、工場の外に出た。

防空ごうの入り口が崩れてふさがっていたので、土砂などを取り除いて中に入った。

防空ごうは、すぐに人でいっばいになった。「水をくれ、水をくれ」と泣いている人も多かった。あまり飲ませたらいけないと聞いたので、脱脂綿に水を含ませて口をふいてやったら、みるみるうちに唇が膨れ上がる人もいた。

近くの海軍宿舎からも、全身にやけどをした兵隊が三人、よろよろと歩いてきた。ただれて肉がめくれ上がった体に薬を塗ったが、三十分もしたら倒れて動かなくなった。

翌日、工場の組長から「三菱電機の城山寮に行って、手伝いをしてくれ」と頼まれた。歩いていったが、その道中は人や馬の死体ばかりで、まさに地獄絵図だった。浦上川には、水を求める人たちがいっぱい群がっていた。「助けてくれ」という声も聞こえたが、それどころではなかった。あの光景は、今でもまぶたに焼き付いて離れない。

それから十日ほどは、死体焼きの手伝いなどをした。「自分もいずれこうなるのかな」と思ったら、見ていられなかった。

その後、徒歩と船で西彼崎戸町の両親の所へ戻った。両親は「死んだもの」と思っていたらしい。母親は私の姿を見た途端、泣き崩れて喜んでくれた。

自宅に戻ってから約一力月半は、激しい下痢などのため寝込んでしまった。神経は衰弱してしまい「どうせ死ぬんじゃろう」と覚悟をしたこともあった。現在も、ずっと病院通いは続いている。

今の子供たちには理解できないかもしれないが、あの惨状は作り話でも何でもない事実。何とか伝えていきたいという気持ちはあるのだが、あまり興味を示してもらえない。あの日のことは、原爆を経験した人間じゃないと、もう分からないのだろうか…。(大瀬戸)
<私の願い>
「核」など威力の巨大な兵器は、平和のために絶対に禁物。二度とあんな悲劇を繰り返さないためにも、新しい兵器の研究や製造はやめてもらいたい。原爆を実際に体験した人間の言葉として、しっかり受け止めてもらいたい。

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