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私の被爆ノート

遺体焼き続け感情まひ

1997年12月5日 掲載
松尾 一男(71) 爆心地から約5キロの防空ごうで被爆 =長崎市愛宕4丁目=

当時十九歳。農業の傍ら、小島地区の消防団員を務めていた。空襲が日に日に激しくなり、空襲警報のサイレンが鳴るたび、一日に何回も出動した。本当に気の休まる暇もなかった。

畑では麦と芋を作っていたが、ほとんど供出し、くず芋で食いつないでいた。そんな苦しい生活を支えていたのは「この戦争は必ず勝つ」という思いだった。

そして「あの日」も、いつもと同じように空襲警報が鳴った。法被を羽織って消防会館に走ったが、間もなく警報は解除された。そのまま自宅近くの民家に向かい、裏で防空ごうを掘っていると、なぜか空からプロペラ音が聞こえる。B-29(米軍の爆撃機)だ。そのまま見詰めていると、B-29から三つの落下傘が落ちてきた。

「ピカッ」

稲妻が走った。そして「ドガガガガーン」という爆音。よく晴れていた空は、一瞬のうちに夕方のように暗くなった。防空ごうの中にいたので幸いけがはなく、家が心配で走って帰った。母も六人の兄弟もみな無事でほっとした。

翌日から、長崎医大付属病院や山里国民学校に「死体焼き」に出掛けた。爆心地付近には数えきれない死体があちこちに転がっていた。その形容は言葉にならない。中には、全くきれいな死体もあった。恐らく「ゲンシ(放射能)」にやられたのだろう。うつぶせにかがんでいる子供を抱き起こすと、体中にべっとりうじ虫がたかっていたこともあった。

茂里町の辺りには、三菱長崎兵器製作所茂里町工場で働いていて犠牲になった人の遺体が、何百と運び出され並べられていた。二、三日たつと、死体が二、三倍にパンパンに膨れ、男か女か辛うじて分かるぐらいだった。家族が探しに来ても分からなかっただろう。本当にひどかった。

街で死体を見つけると、がれきの中から木材を拾い、その上に遺体を置いて火を付けた。一日に何百も焼いた。今から思うと不思議だが、死体を見ても悲しいとも怖いとも思わなかった。死体のそばで弁当を食べたぐらい。感情がまひしていた。こんな状況では、いつ自分が死ぬかも分からなかったのだから。

そんな日々が一週間ぐらい続いただろう。体にはすっかり死臭が染み付き、家に帰ると家族が嫌がった。「この戦争に必ず勝つ」という思いは、原爆の後は「このままではみんな殺される」に変わっていた。
<私の願い>
戦争は本当に駄目だ。実につまらないものだ。現在はボタン一つ押すだけで、あのときのようなたくさんの犠牲者が出るだろう。平和な時代の今、若い人が戦争をどのようにとらえているのか気になる。

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