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私の被爆ノート

街は夜通し燃え続け

1997年11月27日 掲載
前川 浅之(67) 爆心地から約4キロの長崎市東山手町の旧制長崎東陵中学校で被爆 =平戸市紐差町=

当時、東陵中の四年生で、浜口町にある親類の知人の家に下宿していた。あの日は朝から空襲警報が出て、登校を見合わせていた。午前十時ごろに警報が解除され、学校へ行った。校庭で一年生五人と防空ごうを掘る作業を始めた。

突然、近くの火の見やぐらで避難信号の鐘が鳴り響いた。空を見上げた。敵の爆撃機が飛んでくるのが見えた。一年生を校舎に避難させ、一人で校庭に残った。不意にせん光が走った。防空ごうに逃げ込んだ。

爆撃が続くと思い、数十分間じっとしていた。恐る恐る防空ごうを出た。空を見回した。北側の空全体がオレンジ色の火の玉と薄い灰色の雲に覆われていた。

一年生は帰宅したが、浦上地区の生徒たちは学校に戻ってきた。町中が火に包まれ、県庁より北へは行けないという。私も下宿先の家族の安否が気掛かりだった。浦上へ行くには西山から山越えするしかなかった。浦上地区の一年生三人を連れ、西山へ向かった。

山を越える途中でぞろぞろと歩いてくる被災者の列とすれ違った。顔や手は焼けただれ、服はぼろぼろだった。後から来る人ほど、負傷の程度がひどかった。

山を越えると、辺り一面がれきの山で火がくすぶり続けていた。つぶれた民家の下から子供の泣き声が聞こえた。屋根と地面のすき間に、一歳にも満たない赤ん坊が取り残されていた。夢中で助け出したが、赤ん坊をどうすればいいのか分からなかった。通りがかった二十代半ばの女性二人が声を掛けてくれた。事情を話すと、「私たちに任せて」と赤ん坊を抱き上げ、西山の方へ去っていった。

山里国民学校付近から西へは燃え盛る炎で足を踏み入れることができなかった。至る所に遺体があり、傷ついた人がいた。動ける者は日が暮れるまで負傷者の救助に走り回った。身内も他人も関係なかった。だれもが互いに助け合った。

一年生を学校に帰し、長崎医科大の裏手にある芋畑で夜を明かした。避難してきた人たちが周囲で次々と息を引き取っていった。眼下の街並みは火の海だった。夜通し燃え続けていた。

夜が明けてから浜口町の下宿先へ行った。二階建ての家は完全に焼け落ち、炊事場で下宿のおばさんが死んでいた。なぜか、遺体はぱんぱんに張っていた。縁側では、当時五、六歳だったおばさんの娘二人が黒焦げになっていた。爆心地から下宿は数百メートルしか離れていない。もし、あのまま登校を見合わせていたら、私も死んでいたに違いない。
<私の願い>
戦争を知らない世代は日に日に増えていく。被爆に限らず、戦争を体験した人は次世代に語り継ぎ、次世代の人はそれを継承する努力をしてもらいたい。頭で理解するだけではなく、戦争の非人道性をもう一度深く考えてほしい。

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