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私の被爆ノート

「水をくれ」叫ぶ学友

1997年11月22日 掲載
堀川 泰斗(67) 爆心地から約1.8キロの御船蔵町で被爆 =長崎市宝町=

当時十四歳。竹の久保町にあった旧制瓊浦中学校に在学していた。家は旧船蔵町(現・宝町)にあった。空襲が激しくなったため私たちが住んでいた一帯は強制疎開することに。家は取り壊され、矢上へ移り住むことになった。わたしは御船蔵町の伯父の家に下宿し、そこから茂里町の三菱製鋼所に学徒動員され通っていた。

その日は朝から工場へ行こうとしたが、空襲警報が鳴ったため、いったん家に待機した。警報が解除され工場に向かう途中、空からかすかに飛行機の音が聞こえた。それからピカッと光り、その瞬間、爆風に襲われ、とっさに通り掛かりの家の軒下に潜り込んだ。

軒下にも鉄くずやガラス片が飛び込んできた。怖くて外に出ることができず、一時間ほどそこで小さくなって過ごした。数時間たったような気がした。外に出ると今までの町は一変して見る影もないありさまだった。この一瞬の間に何が起こったのだろう…。全身やけどの死体が無数に転がり、倒れた馬の腹からは内臓が飛び出すなど、悲惨な光景が目に映った。これを生き地獄というのだろうか。阿鼻(あび)叫喚の世界だった。

もうここにいては危ないと思い、家族のいる矢上へ向かった。足の踏み場もないくらい積もったがれきの上を歩いていると「堀川」とうめき声がした。声の方向を見ると、全身にやけどを負い変わり果てた学友がいた。人相も分からないくらい全身にやけどを負い、髪は抜け、皮膚は垂れ下がっていた。わたしは彼が名乗るまでだれか分からなかった。学友は「水をくれ、水をくれ」と悲痛な叫びを繰り返した。

その時は一滴の水もあろうはずがない。とにかく一緒に逃げ帰った。長い一日だった。矢上に着いたときは既に日も沈んでいた。その学友は後日亡くなったと聞いている。たくさんの学友が爆死したことも知った。

翌日、爆心地近くの旧山里町の米の配給所にいた叔母の骨を拾いに父と向かったが、焼け跡しかなく、捜し出すことはできなかった。

五十二年たった今でもあの時の悪夢が思い出される。学友の水を欲しがる声は今でも脳裏に焼きついて離れない。毎年八月九日には、犠牲になった級友らの慰霊碑に集まり、追悼している。現在まで不安を抱きながらも生きていることに感謝しつつ毎日を過ごしている。
<私の願い>
二度とあのような悲惨な戦争はあってはならない。いまだに核実験を続けている国があるが、核兵器の恐ろしさは実際に被害に遭わないと分からない。みんなで犠牲者の霊を供養していくとともに、平和を叫び続けたい。

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