松尾十七紀
松尾十七紀(67)
爆心地から約1.2キロの長崎市茂里町の三菱長崎兵器製作所で被爆 =南高愛野町幸町=

私の被爆ノート

助け求める光景印象に

1997年11月13日 掲載
松尾十七紀
松尾十七紀(67) 爆心地から約1.2キロの長崎市茂里町の三菱長崎兵器製作所で被爆 =南高愛野町幸町=

愛野国民学校を卒業し、長崎商業学校に進学。当時、三年生。三菱長崎兵器製作所茂里町工場に学徒動員され、魚雷の内部の機械を作っていた。

あの日は、長与の下宿先から、商業の同級生と二人で工場へ行った。午前九時ごろ、空襲警報が鳴り、山王神社近くの防空ごうへ避難。一時間ほどして工場へ帰り、散髪をした後、二階の職場に戻った。窓辺で友達と話していると、窓の外がピカッと光り、とっさに身を伏せた。

どのくらい伏せていたかは分からない。目が覚めると、灰やごみが舞い、辺りは真っ暗。フッと光が差し込み、じっと座りながら見渡していると、階段があった。壁や天井は崩れ落ち、自分も一階に落ちていた。浦上寄りの工場の端の方にいたのが幸いしたのだろう。かすり傷と耳の裏を少しやけどしていただけだった。

電車通りに出ると、同級生が声を掛けてきた。顔は真っ黒に汚れ、最初、だれか分からなかった。一緒に、火の手を避けるように山へと逃げた。途中、つぶれた家と、家の下の防空ごうとの間に男性が挾まれていた。助けを求めていたが、どうしようもできなかった。その光景が今でも印象に残っている。

二人で山を歩き回った。浦上天主堂がずっと下に見え、上の方には段々畑が広がっていた。畑は避難してきた人たちやけが人でいっぱい。「水を飲ませてくれ」と言われたが、あげる水がなかったし、そんな余裕もなかった。

山を下ったのは午後八時ごろだったと思う。本原を通り、山里国民学校下の浦上川付近に出た。川は死体やけが人であふれ、直視できなかった。電車は焦げ、馬車は倒れていた。

大橋の先から汽車に乗り、下宿に帰った。下宿には父親が心配して来ていた。三日後、様子を見に学校へ。その途中の空き地には、死体が集められ、焼かれていた。翌日ぐらいに原爆と知った。

終戦前に父親と帰郷。しばらく何ともなかったが、学校が始まる前日の八月三十一日、長崎へ帰るための切符を愛野駅に買いに行った際、急に具合が悪くなり病院へ。熱が引かず、三カ月間、入院した。翌年の一月に学校へ戻ったが、また具合が悪くなり、しばらく実家に帰った。

その後は原爆の後遺症もなく、元気に暮らしている。
<私の願い>
長崎、広島に原爆が投下されて半世紀が過ぎた。原爆により、第二次世界大戦は終結。そして戦争で何百万人もの人たちが犠牲となった。その犠牲者のおかげで現在の日本がある。その尊い運命の人たちを忘れないで、子々孫々、平和を伝えてほしいと願う。

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