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私の被爆ノート

姉の遺髪手に両親のもとへ

1997年11月6日 掲載
深堀 好敏(68) 爆心地から約3.5キロの矢の平地区の県疎開事務所で被爆 =長崎市坂本3丁目=

当時、十六歳。山里町(現・平野町)で米屋と八百屋を営んでいた両親と祖母、妹たちが四日、疎開したため学徒報国隊だった私と弟は山王神社近くの叔父の家に身を寄せた。姉も私たち二人の面倒を見るため残った。

その日も動員先の県疎開事務所で働いていた。すると突然「ピカッ」というか「ビシッ」というか。慌てて机の下にもぐり込んだ。みんなにけがはなかった。外は煙もなければ火の手もない。爆撃の場所が分からず情報が錯綜(さくそう)した。しばらくすると浦上の方に黒い煙が上がり、灰のようなものがたくさん飛んできた。「浦上に新型爆弾が落ちた」。徐々に情報が入り始めた。「爆弾一個で町中が燃えるのか。ただごとでない」。山を越え命からがら逃げてくるけが人が増えるごとに深刻さが分かってきた。

「帰ろうで」。夕方、当時、近くに住んでいた同じ職場の親友、吉永君と金比羅山を目指した。と、芋畑にはさまれた一本道を行列をつくり歩いてくる“黒い集団”。彼らの顔は一様に黒くすすけ、黙ってうなずきながら擦れ違っていく。「水を一杯…」。私の足に必死でしがみついてきた焼けただれた中年女性。あの光景は今でも忘れることができない。

暗くなると次第に怖くなり、私たちはそれ以上先に進めず、再び職場に引き返した。翌朝、家族の安否を確かめるため再び出発。前日とルートを変え長崎駅方向から向かうことにした。駅を過ぎた辺りで浦上一帯が視野に入った。民家は消え、電車は焼け、工場群は全壊。「前日の朝と景色が違う。夢を見ているのだろうか」と思った。

叔父の家はペチャンコ。姉と叔父はがれきの下で死んでいた。土壁と材木に埋もれた姉は右のこめかみに血痕を残し眠るように息絶えていた。

十八歳という短い生涯。身に着けていたべっ甲のヘアピンを外し、少しの髪の毛をポケットに入れ、叔母がいるという長崎医科大付属病院に向かった。だが、見つけることはできず、吉永君と二人で彼の家族捜しに出掛けた。

浦上刑務支所下の防空ごうに吉永君の祖母はいた。彼とそこで別れ、弟が働いていた三菱兵器大橋工場に急いだ。しかし、工場はほぼ壊滅状態。空腹で疲れ果てた私は疎開している両親に会うため川平方面に向かって再び歩き始めた。
<私の願い>
原爆投下は人類が犯した最大の罪。若者には数々の悲劇の歴史の上に今日の平和があることをしっかりと受け止めてほしい。この悲劇を後世に残し伝えるため、被爆惨状写真の収集整理に取り組んでいる。

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