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私の被爆ノート

目に耳に心に惨状が

1997年10月30日 掲載
原口 美子(73) 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町で被爆 =佐世保市横尾町=

当時二十一歳。そうめんの配給を受け、自宅へ向かって稲佐国民学校のわきを歩いていると突然「ピカッ」と空が光った。一瞬、目の前が真っ暗になり地面に伏せた。何が起きたのか分からなかった。

黒い粉じんに覆われ、何も見えなかった。しばらくして辺りを見回すと、目の前の学校の木造校舎が見るかげもなく崩れていた。何とか無事だったのは、学校を囲む石垣で爆風の直撃を免れたためだ。

学校のそばにあった家に帰ると、窓ガラスや屋根がわらが吹き飛ばされ柱だけになっていた。玄関の表札辺りは黒く焦げて煙が出ていた。「もしもここにいたら助からなかった」と思った。原爆であることなど知るよしもなかった。

家族三人暮らしで、父は長崎電鉄に、弟は長崎駅に勤めていた。三菱造船で働いていた母は五年前に転落事故で他界していた。海軍の兄は、一年前に戦死。戦場がどこだったのか知らなかった。母親代わりで食料の買い出しなど家のことをすべて任され、ただ生きることに精いっぱいだった。

日が暮れて、真っ暗な家で、父と弟の帰りをひたすら待った。幸い二人は無事だった。力を合わせ畳や床に散乱したガラスを片付け、屋根や壁を集めた木材で打ち付けた。何とか住めるようにと懸命に働いた。

近所のおばあちゃんは頭にひどいやけどを負い、数日後亡くなった。空き地で木材を積み火葬されたのをぼう然と見ていた記憶がある。崩れずに残った稲佐国民学校のコンクリート校舎が救護所となり、多くのけが人が手当てを受けた。講堂をのぞくと、無残な死体がそのまま並べて寝せてあり目を覆う光景だった。「こんな残酷な戦争はもうたくさん」との思いが胸に込み上げた。

水をくみに川に行くと、顔などが焼けただれた人たちが「水を水を」と苦しそうに助けを求めていた。声が今でも耳から離れない。焼け野原を歩いてきた人たちが「座ったまま黒焦げになっていた」「数えきれない死体で地獄のようだ」と口々に話していた。目に耳に心に焼きついた惨状は、五十年以上たっても忘れることはない。
<私の願い>
多くの人の命を奪う戦争は二度と繰り返してはならない。核兵器は許せない。保有国は、核がもたらす惨状を知っているのだろうか。一刻も早く恐ろしい兵器を地球上からなくすべき。自分たちの被爆体験を風化させず恒久平和のために継承してほしい。

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