当時十七歳。旋盤工だった。西郷(現在の西町)の自宅は両親と兄(二男)の嫁と私の四人暮らし。ジャワ島でマラリアを患い帰還した兄はその年の二月に、三男の兄も四月にビルマで戦死した。
その日はいつものようにトンネル内にある工場で、魚雷用のねじを旋盤で切る作業に従事。すると突然、停電になった。
「休憩できる」。喜んで仲間たちと一緒に外に出ようとした瞬間、ものすごい爆風が襲った。外にいた人たちは吹き飛ばされ、天井に張り付けてあったトタンははがれトンネルを通っていた電線に引っ掛かった。どれぐらいの時間が経過しただろうか。周囲がざわつき始めた。
「トンネルの前に爆弾が落ちた。中に入れ」と言われた。トンネルの奥に入ろうとしても暗くて入れない。その後「山の上に避難しろ」との命令に従った。見晴らしのいい山の上から見る住吉地区は火の海、空は真っ暗。「たくさんの焼夷(しょうい)弾が落ちたのだろう」。原爆のことなど知るよしもなかった。
しばらくして三菱兵器大橋工場にけが人の救助に向かうことになった。近くに多くのけが人がいたが手も差し伸べなかった。ただ命令に従うだけだった。神経がまひしていたのかもしれない。
壊滅状態の大橋工場では工作部長がじかに指示を出した。「飛行機が飛んできてピカッとしたらこのざまだった。気を付けろ」。焼夷弾でないことがそこで初めて分かった。工湯内は血の海。そこでの作業は救助というよりむしろ死体運びだった。でも怖くはなかった。
この後、家のことが気になり友人とともに自宅へ。こっちもやはりけが人や死体ばかり。必死にがれきを乗り越えたどり着いたが、わらぶきの家は跡形もなく、煙が出ているだけ。目の不自由な父は自宅下の川の土手に、兄嫁と母は近くの山でいずれも大やけどを負い休んでいた。
翌日、母を病院に連れていこうと道ノ尾駅まで行ったが「病院は満員」と言われ、引き返さざるを得なかった。そうこうしているうちに母は薬もなく二日後に、自力で病院に向かった兄嫁は四日後に死んでしまった。
<私の願い>
原爆で多くの家族や親類を亡くした。平和利用、自衛のためなどと核保有国は主張しているが、理由は何であろうと核兵器は人類を自滅に導くだけのもの。「おれには関係ない」などと言っている若者たちは、目を覚ましてほしい。核兵器は地球上のみんなに関係する。