築城 昭平
築城 昭平(70)
爆心地から1.8キロの文教町で被爆 =長崎市ダイヤランド2丁目=

私の被爆ノート

発熱と脱毛に死を覚悟

1997年10月9日 掲載
築城 昭平
築城 昭平(70) 爆心地から1.8キロの文教町で被爆 =長崎市ダイヤランド2丁目=

十八歳だった私は、長崎市文教町にあった長崎師範学校(現・長崎大学教育学部)に通いながら、動員学徒として三菱兵器住吉トンネル工場で毎日、働いていた。工場には九州大学工学部の学生や、奄美大島から動員された女子てい身隊、強制連行の朝鮮人の姿もあった。

その日は夜勤を終え、午前七時ごろ、師範学校そばの寮に着いた。主食のカボチャを食べた後、空襲警報が鳴ったので厚手の布団を頭からかぶり眠っていた。突然、「ガガガガ」「バリバリ」という音で目が覚めたと同時に、爆風で吹き飛ばされ、気が付いた時には部屋の壁に体を打ち付けられていた。

隣に寝ていた友人の血だるまになった顔が目に飛び込んできた。「おい、やられとるぞ」。友人の言葉で自分の体を見ると、左手首と左足先が焼けただれ、飛び散ったガラスの破片で、体じゅうから血が流れているのに気付いた。

はだしのまま友人と二人で急いで二十メートル先の防空ごうに向かったが、到着した時には近所から逃げてきた被爆者で込み合い、中に入れない状況だった。被爆者のほとんどが全身黒焦げで、中には手や口がただれ、肉が皮膚から飛び出ている人もいた。

しばらくして長与国民学校(現・長与小学校)に臨時収容所が設置されたとの知らせを聞き、防空ごうに入れなかった人たちは歩いて収容所に向かった。長与までの道すがら、腸が破裂した人の死体や既に息絶えた子供を気が狂ったように抱き締める母親、泥人形のように焼けただれて逃げ惑う被爆者の姿は、まさに地獄絵そのもので生きた心地がしなかった。

収容所で治療を受けた翌日、父が迎えに訪れ、西彼長与町の疎開先の家で静養することになった。しかし、数日は立つことができず発熱と血便、脱毛が続き、いつかは死ぬだろうと覚悟していた。

十月初めごろ、やっと歩けるようになり、長与駅から汽車に乗り、長崎駅まで向かった。車窓から見た風景は一面、焼け野原で何もなく、片足鳥居や破壊された浦上天主堂だけがむなしく残っていた。当時の惨状は今でも目に焼きついている。
<私の願い>
長崎原爆の体験を一人でも多くの人に知ってほしいと、二十年以上前から語り部活動を続けている。子供たちがらんらんと輝くひとみを寄せ、真剣に話を聞いてくれることが私の何よりの生きがい。この子たちが次の世代へ長崎の心を語り継ぎ、核のない平和な世の中を築くことを祈っている。

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