長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

一晩中、野犬から遺体守る

1997年10月2日 掲載
松本 政憲(72) 爆心地から2.3キロの勝山町で被爆 =南高西有家町須川=

当時、十九歳だった私は長崎署浜町派出所の巡査。空襲警報が発令されると、警防団(今の消防署)第三分団詰め所になっていた長崎市勝山町の勝山小で、分団員とともに被害に遭った人の救護に当たるのが任務だった。

あの日は、午前九時すぎに警報が鳴り、いつものように派出所から自転車で勝山小に向かった。

以前から、島原半島上空をB29が襲来するラジオ放送が頻繁に流れており、十日ほど前には、南高西有家町の実家の田んぼに、二十、三十畳のすり鉢状の跡が残るほどの爆弾が落とされていた。 詰め所は校舎の北側隅の教室。集まってきた顔見知りの分団員数人に、空襲による不安な気持ちを抑えきれず、実家の親、兄弟を案じる話をしていた。

その時だった。突然、閃光(せんこう)が走り、気付いたときには教室の隅に四メートルほど飛ばされていた。腰に短剣を下げていたが、はずしていたか、飛んだのか、定かでないが腰にはなかった。

爆心地から約二・三キロだったが、爆風、熱が山などに遮られたためか、幸い背中にガラスの破片が刺さっていた程度で、分団員も大丈夫だった。

一体何が起こったのか全く見当がつかなかった。外を見渡すと、校舎の窓ガラスは一枚もなく、民家の屋根がわらは飛ばされ、周辺はがれきの荒野と化していた。浦上方面からはもうもうと黒煙が上がっていた。

詰め所には、その日の夕方ごろから自力で歩いて手当てを求める人が次々と集まってきた。服はボロボロで黒く焼け焦げ、体じゅうの皮膚がただれていた。悲痛なうめき声。手当てするにも薬品がない。少数ながら看護婦の懸命の対応もむなしく、多くが息を引き取っていった。

戦場の経験はなかったが、それ以上に地獄だったように思う。既に、息絶えた母親の乳房にすがって泣く乳飲み子の姿は、今でも鮮明に残っている。

日を追うごとに勝山小に運び込まれてくる遺体も増え、体育館が安置所になった。夜になると、遺体に集まってきた野良犬を、市役所付近まで延焼していた明かりを頼りに一晩中、棒を振り回し追い払った。

夏場で遺体の傷みはひどく、幾度となく大八車に重ね合わせては、近くに運んで火葬した。名前が分からない人も多く、背格好など特徴を記した死亡検案書を私も数人分書き残した。

あの日から五十二年。長崎市の平和祈念式典には毎年欠かさず参列し、検案書を書いた故人のめい福を祈り続けている。
<私の願い>
世界の大国が核を保有し、いまだに核実験を行っている現実に怒りを覚える。一瞬にして、多くの尊い命を奪い去ったあの悲惨な出来事はナガサキを最後にしなければならない。「核兵器を製造しない、保有しない、持ち込みを認めない」という非核三原則が世界に広まり、一日も早く、核がこの世から消えることを願うばかりだ。

ページ上部へ